ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

そこに必然の恋はあるか? 「国境の南、太陽の西」

 

「僕たちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も知る必要がある」
哲学者 ジャン=ポール・サルトル 

 

フランスの哲学者サルトルが内縁の妻である、同じくフランスの哲学者ボーヴォワールに話したと言われているのがこの台詞だ。これを読んでなんたる浮ついた気障男か、あるいはなんと自分に都合のいいことを言う男か、と憤慨される人も多かろうと思う。しかしそういう感情はいったん脇に置いておいて(置いておくことは無理だという人も多いでしょうが)考察していきたい。二人の間に何があればサルトルの言うところの「偶然の恋」でなく「必然の恋」だと言えるのだろうか?

ぼくは普段それほど恋愛小説は読まないし、恋愛映画や恋愛をメインにしたドラマも見ない。ぼくは村上春樹の小説が好きで、全て読んでいるのだけど、彼の小説の中で何が一番好きか、と問われると、この「国境の南、太陽の西」を挙げる。巷にあふれている恋愛小説は、重要な点が欠落していると考えるからこそ、がっかりしてしまったり、なんだか最後まで乗れなかったりするのだが、この小説だけは別だ。(不倫を主題に置いているためになかなか人には勧めづらいし、合う人と合わない人の差も激しいとは思うのだけど)

恋愛小説において重要なこと、それは「自分の恋愛の相手は彼女(あるいは彼)でなくてはならない」という必然性ではないだろうか?もしその必然性に説得力がなく、他の誰でもいいのであれば恋愛小説のなかのドラマは成立しない。相手が誰でもいいのなら、どれだけ愛を叫んでも空虚だし、ふたりの愛の間に障害があるのなら別の相手を探せばいいだけの話だ。

 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

 

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許されないすべての人間への赦し「失くした体」

はっきり言ってこの映画の後味は悪い。一般受けとは程遠い映画だ。80分間通して、画面はゴミだめ、通気口、地下鉄の線路などを写すために暗く、ラストにも救いがない。見終わったあと、これはいったいなんだったのか、とガッカリする。期待していたようなエンディングでないために、もしかしたら怒る人もいるかもしれない。魔法のような世界でありながら、奇跡のような展開は起きない。だが、じわじわと余韻が残る。あれはいったいなんだったのか?見終わってから数日、映し出された物語の意味を考えさせられる羽目になる。この余韻はいったいなんなのか?「失くした体」とはどういう意味をもつ映画なのか?

右手を事故で失くした青年、ナウフェル。物語は医療施設に保管されていた彼の切断された右手と、右手の主であるナウフェルを主人公として語られる。右手は施設を抜け出し、夜のパリを駆け抜ける。『失くした体』ナウフェルの右腕と再び結ばれることを夢見て。

普通に考えれば、失くした体、というより、失くした右手だろう。しかし、原題は「J'ai perdu mon corps」で、直訳すれば「私は体を失った」となるようだ。どうしてこのようなパラフレーズが起こっているのだろうか?どうして右手の視点で物語は語られるのか?

 


『失くした体』予告編 - Netflix

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文学の時代性、地域性について「うたかたの日々」

昔、優れた文学というものは、時代や地域に関係なくあらゆる時代のあらゆる地域の人間にとって心に響くものだとおもっていたが、最近はその考え方が狭量に過ぎたと思う。ある時代、ある地域に生まれた人間が書いた小説は好むと好まざるとによらずその時代と地域の影響を受けているからだ。しかし、こう思われるかもしれない。政治的な主張や、イデオロギーの発露がなさそうに見える、この「うたかたの日々」のような小説でもそれが言えるのか?と。

はじめ「うたかたの日々」という小説をどう読んだらいいか分からず、序盤で思わずWikipediaの力を頼ってしまったのだが、その後はこの小説の持つ独特の世界にすんなりと共感できたように思う。

「うたかたの日々」は1947年に書かれ、パリを舞台にしている。1947年といえば、ぱっと思いつくのは第二次世界大戦の戦後すぐの頃であり、その当時のパリというのはナチスドイツの占領から回復(1944年8月)した直後のことだ。

そこからぼくはこの小説の時代性と地域性を感じ取った。それは一体何か?

以下考察していきたいと思う。

 

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

  • 作者:ヴィアン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2011/09/13
  • メディア: 文庫
 

 

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