ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

神は死んだ 「最初の悪い男」

最初の悪い男、とは一体誰のことだろう?
この小説のタイトルになっているこの言葉のことを考えながら読んでいると、作中でそれらしい記述があった。

 

「最初の人だよ 」と彼女が言った 。 「デニムの ? 」 「最初の悪い男 」言われてみれば 、そういう立ち方だった ─ ─足をがに股に開き 、大きな両手をあいまいに宙に構えていた 。いかにも平和な街に闖入してきてありとあらゆる悪事を働き 、またいずこともなく去っていく悪漢といった感じだった 。 

 

シェリルとクリーが護身術の動画再現で話題にしたこの部分。しかし、それがこの本のタイトルになるほど重要な「最初の悪い男」なのか? と言われると、いささか弱い。

 

この記述で「最初の悪い男」とは、悪意を持った悪漢であるという印象を与えるが、実はこれは作者のミスリードで、実際はそうではないのだ、とぼくは思う。このエピソードは、「最初の悪い男」という概念を小出しにして提示したに過ぎない。

 

「最初の悪い男」とは、物語全体を支配しているメタファーを表したものだろう。まず、ぼくの仮定はこうだ。「悪い男」とは、必ずしも悪意を持っていない。にもかかわらず、さまざまな悪影響を及ぼす。つまり、「いかにも平和な街に闖入してきてありとあらゆる悪事を働く」悪意は持っていないが、あらゆる悪影響を与える。そして、「最初の」ということから、シェリルが一番はじめに出会った男ではないかと推測される。

 

「最初の悪い男」それは9歳のシェリルが初めて出会った父親以外の男。彼女の人生の方向性を決めた男。つまり、クベルコ・ボンディのことではないだろうか?彼は弱く美しく、全幅の信頼をシェリルに寄せる。シェリルにとっての完璧の男だ。しかし、彼との出会いが彼女の人生を決定的に狂わせたとも言える。

 

クベルコ・ボンディというキャラクター(というか概念)にはこの小説全体にかかっているメタファー、あるいは西欧社会や、ひいては現代社会に通底するメタファーがあるように感じる。


そのことについて書きたいと思う。

以下、ネタバレを含みます。

 

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

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無常への儚い抵抗 妊娠カレンダー

そのままを維持したい感情と何者もそのままではいられないという現実

 

小川洋子を読むのは博士の愛した数式に続いて2冊目である。だから、まだまだ彼女のライトモチーフを語るほどには読み込んではいないのだが、今回彼女の小説から感じたのは、変化への拒絶である。

 

ぼくが小説を読んでいて常に考えるのは、「この小説は読者をどこに連れて行ってくれるのだろうか?」ということだ。驚くような結末か、考えさせられるような機知に富んだ展開か、著者の人柄あふれる心情か? 博士の愛した数式は、表面は美しい表現にあふれているが、ぼくをどこへも連れて行ってはくれなかった。それでずいぶんがっかりした思い出がある。

 

謎は謎のままであり、展開に心を動かされるようなものはない。でも、今回妊娠カレンダーに連なる短編を読んではっとなった。そもそも、どこかにたどり着く必要などあるのか? というか、そもそも作者である小川洋子は「どこか」にたどり着きたいと思っているのか? と。

 

 

妊娠カレンダー (文春文庫)

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「本質」はどこにある? バーニング

村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を原作にした映画「バーニング」を見てきましたのでその感想を書きます。

 

テセウスの船というギリシャ神話に基づく有名なパラドックスがある。ファレロンのデメトリウスの時代からあるとされる希少価値のある30本の櫂を持つ船は、朽ちた木の部品を取り替えることで今現在まで残ってきたのだという。しかし、もしも古い部品を取り替えて、すべての部品を新しいものに取り替えたとき、果たしてそれは元の船と同じだと言えるだろうか?というのがこのパラドックスの要点だ。逆に言えば、「何が残っていたら同じテセウスの船だと言えるか?」であり、さらに言えばテセウスの船をテセウスの船たらしめている「本質」は一体なんなのか?というものが設問になる。

 

兵役を終えて帰国した主人公ジョンスの前に、彼の幼馴染だと名乗る女ヘミが現れるが、整形手術のおかげでジョンスは彼女が幼馴染だと分からない。ヘミは、幼少期に井戸の中に落ちて困っていたところをジョンスに救われたと言うが、それをジョンスは覚えていない。それは2人を結びつける重要なエピソードなのにも関わらず。ジョンスは恐らくはヘミとの精神的な結びつきを感じるために村の人たちに井戸の存在を聞いて廻るが、村長やヘミの家族は井戸など存在しないと言うし、ジョンスの母親は井戸はあるという。ジョンスにとっての「幼馴染のヘミ」は、何が残っていればヘミと呼べるのだろう?そして、2人の間にあるのは愛情?友情?それともそれらとは全く別のものなのか?

以下ネタバレを含みますので注意。

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