ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

こちら側の晴見に手を振る「おやすみプンプン」ラスト考察

最終巻を読み終えて、この物語が様々な属性を持っていることに驚く。
 
青春群像劇であり、ロードムービーであり、ファムファタルの話であり、クライム・ストーリーでもある。
 
しかし、ラストを見ると、やはりプンプンという青年の成長の物語なのだと思った。
 

プンプンは、どこにでもいる普通の男、では断じてない

 
プンプンは外見こそヒヨコのようなキャラクターで描写されているが、どこにでもいる、普通の青年だ。
 
と、読者は思うだろうけど、騙されてはいけない。作者も、読者がそう思うようにいろいろと仕掛けを用意しているように感じる。
 
確かに、ずば抜けたIQで難事件を解決するわけでも、飛び抜けてスポーツができるわけでもないが、冒頭から級友に馬乗りして砂利を食わせていた女の子に惚れるというぶっ飛んだキャラクターを発揮している。しかも、けっこう複雑な家庭環境で育っていて、それがしっかり性格に反映されて、歪んだ性格や行動になっているのだ。ある朝起きると母親が父親のDVで倒れている。母親は入院して、父親は傷害で逮捕される。母親からの愛を受けられず「生むんじゃなかった」と言われて育ち、精神的なサポートを期待できるはずの父親は、離婚後プンプンとは離れて暮らしている。
 
にもかかわらず、彼がどこにでもいる普通の青年に見えるのは、やはりプンプンや、プンプンの親族の外見にあると思う。彼らがテキトーに書いたヒヨコのような外見をしているからこそ、父親の母親に対するDVも、かなりマイルドに、というかほとんどギャグのようになっている。もしもプンプンや、プンプンママ、プンプンパパが他の登場人物同様の姿だったとしたら。描写力の高い浅野いにおによって生生しくプンプンママの傷跡が描かれていたら、読者に与える影響は全然別のものになっていただろうとおもう。
 
そういう細かい積み重ねが、プンプンがごく普通の、ありきたりなキャラクターであると思わせつつも、ラストの、愛子ちゃんを日常的に虐待し、軟禁状態にしてきた彼女の母親を殺して愛子ちゃんと逃避行という、常人から見れば一線超えちゃった行動、つまりは「あちら側」の世界に行ってしまっても一定の説得力がある。
(そして、愛子ちゃんがものすごく可愛く、愛おしく思えるために、読みながらなんとか愛子ちゃんを守りたい、救いたいという気持ちになるのだ。救おうと思えば破滅が待っている運命の女ファムファタルなのだけど、それはまた機会があれば書きたいとおもう)
 

ラストの晴見視点について

降って湧いたように晴見が出てきて、ラストシーンの語り部になった、という印象を受ける人もいるかもしれないが、僕はそうは思わない。
この漫画はプンプンの分身ともいえるキャラクターがいる。プンプンの叔父、小野寺雄一や晴見俊太郎だ。彼らを「こうであったかもしれないプンプン」なのではないかと感じた。
 
プンプンの素顔がどんなものなのか、と想像した時、理由はないけど、僕はたぶん晴見に似ていると想像する。幼いころ、転校したきり一度もあっていない彼は、プンプンママと病院で知り合う。爽やかで、人当たりのいい晴見に好意を寄せるプンプンママだが、彼が悩みを打ち明けたときには「プンプンと同じ目をしている」と感じていた。
 
ふたりとも高い感受性を持って思い悩む、同じような青春時代を送っているが、プンプンが何か困難があった時に逃げるのに対して、晴見は正面からぶつかる。
プンプンは、鹿児島に行こうと約束しておきながら愛子から逃げ、一緒に病院に行くと約束しておきながら幸からも逃げた。その結果、幸とも結婚せず、ずるずると日々を過ごしている。
 
一方晴見は、事故にあった彼女ときちんと和解して、最終巻では結婚にまでこぎつけている。
 
しかし、晴見はプンプンと同様にその高い感受性のせいで自分の人生に対して何か言い知れない虚無感のようなものを抱いており、「誰かを殺さなきゃ」と街を徘徊するが、彼は結局誰も殺してはいない。
つまり、彼は一線を超えることができない「こちら側」の人間なのだ。
 
一方でプンプンは愛子と共依存の関係にあった母親を実際に殺している。
 
この物語の中では、明確な「あちら側」と「こちら側」が存在して、それは行き来することがない。
 
両思いになっていながらうまくいかなかった、プンプンと蟹江梓。愛子と矢口先輩。それは、「あちら側」と「こちら側」が決して交わらないことを象徴している。
 
「あちら側」とは、破滅的で危険な自意識の世界だが、「おやすみプンプン」は、見事にこの破滅的な自意識の世界に読者を引きずり込んでいく。そのための、「ヒヨコ」なんじゃないだろうか?
 
おやすみプンプン」のラストは、普通に振る舞わなくてはと葛藤し、あるいは逆に、自分が特別な存在だと信じて葛藤する強すぎる不安定な自意識との決別を意味するのだと思う。浅野いにおは巧みに読者を「あちら側」に引き込んで起きながら、さあ、これで狂気に満ちた「あちら側」の世界はおしまい、とばかりに、「こちら側」の晴見に、こうであったかもしれないプンプンに登場いただいて、ラストを締めるのだ。
 
だからこそ、晴見は道路のこちら側にあり、プンプンは道路のあちら側に立って彼に泣きながら手を振るのだ。そして、晴見もまたこの別れが自分自身の強すぎる自意識との別れという意味合いを持っているのだと知り、涙ぐんで「また」と手を振る。再び会うことはないでだろう、名前も思い出せない旧友に手を振るのだ。
それが、僕の「おやすみプンプン」のラストの解釈だ。