1人の命と引き換えに3人の命を救うか否か「これからの正義の話をしよう」
正義というと、なんだか堅苦しいイメージがあるような気がします。
それは、その言葉をかさにきて誰かを裁いたり罰したりすることが多いからかもしれません。
本書の場合の正義とは、ものすごく平たく言うと、なにか問題が発生したときに、どうやって行動するべきか?という一言に集約されるとおもいます。
例えば、以下のよう状況を思い浮かべてみてください。
あなたはトロッコの分岐レバーの前にいます。
荷物を満載したトロッコがすごいスピードで走っています。トロッコが行く道の先には3人の作業員がおり、彼らはトロッコの存在に気づいていません。このままいくと3人とも死亡するでしょう。しかし、あなたがトロッコの分岐レバーを倒せば、トロッコは別の道へ行き、3人は助かります。
ところが、別の道には1人の作業員がおり、彼もまたトロッコの存在に気づいていません。あなたがレバーを倒せば1人の作業員が死亡します。
あなたなら、レバーを倒しますか?
というもの。この命題のカンドコロは、3人の命と引き換えに1人の命を奪ってもいいか?というものです。
最大人数の最大幸福(なるべく多くの人が幸せになる、あるいは、なるべく少ない人が不幸になるようにすること)を標榜する功利主義の観点からいけばレバーを倒して、1人だけを犠牲とし、3人の命を救うことが最善の回答でしょう。
ここで、問題を少し変えます。
あなたはトロッコの線路を見下ろす丘の上にいます。
荷物を満載したトロッコがすごいスピードで走っています。トロッコが行く道の先には3人の作業員がおり、彼らはトロッコの存在に気づいていません。このままいくと3人とも死亡するでしょう。しかし、あなたが、あなたの隣に立っている太った男を線路につき落とせば、トロッコは確実に停車し、3人は助かります。
あなたは太った男を線路に突き落とすべきでしょうか?
なんだか剣呑とした雰囲気の問題になってきましたね。功利主義の観点から行くと、やはり、突き落とすべき、となります。そうすれば結果的に被害者は減るわけですから。
もしも、太った男を突き落とした場合、太った男の人格を度外視し、男をトロッコを止めるための手段として使用したことになります。
これは、カントの考えでは誤りです。人の人格というものは不可侵であり、最も崇高なものです。
何人たりとも人間の人格を物のように扱うことはならない、というのがカントの考えです。
また、カントは、自殺を認めていません。
リバタリアン(自由主義者)なら自殺も個人の自由ということになるのでしょうが、カントは彼らとは異なる立場に立ちます。カントにとって人間の人格は、他人のものであっても、自分のものであっても、最も神聖で不可侵であるからです。
こうして考えると、「正義」は身近なものに感じられないでしょうか?
本書は以上のようなイメージしやすいケースを引き合いに出して、難解な哲学の内容をやさしく論じています。
難問に対してどう対処するか、また、どう対処するべきなのか?世の中はより複雑になり、選択肢が増えるとともに、僕たちの直面する問題はいっそう個人的なものになっていくでしょう。そうした中で本書は新しい考えを導き出してくれる糸口になるかもしれません。