ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

死は確かなもの生は不確かなもの「わたしを離さないで」

 

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

 

 塩野七生によれば、古代ローマでは敵軍を撃破したローマ軍の最高司令官を讃えるために、凱旋式というものが開かれた。最高司令官は、輝かしい戦利品と、自らの軍勢を率いてローマに戻り、凱旋門をくぐった。古代ローマの男にとって凱旋式を挙げることは最大の栄誉であり、夢である。そんな人生最良の日である凱旋式のあいだじゅう、最高司令官の傍らには常に一人のみすぼらしい奴隷がいたという。奴隷は耳元で「死すべき身であることを忘れるな」と囁いていたそうだ。ついつい浮かれがちになる最高司令官を戒めるための伝統であったというのが塩野さんの解釈だ。
「モルス ケルタ ヴィータ インスケルタ」当時古代ローマで使われていたラテン語だとこうなる。「死すべき身であることを忘れるな」とは塩野さんの意訳であろう。直訳だと、「死は確かなもの。生は不確かなもの」だ。
 カズオイシグロの傑作、「わたしを離さないで」を読んだとき、僕はこの言葉を真っ先に思い浮かべた。この本はある極めて特殊な状況に生きた女性の話であるが、そこに描かれた世界観は、普遍的な確かな死と不確かな、しかしそれゆえに美しい生のメタファーであるのではないかと感じた。
 本文は以下、ネタバレです。

 

 主人公のキャシー(キャス)はクローン人間で、臓器を提供するためにこの世に生を受けた。ヘールシャムという全寮制の学校のような場所で、同じような境遇の「生徒」が、教育を受けたり、絵画や詩作といった芸術活動をしながら暮らしている。そこで彼女は、親友のルースと、のちに恋人になるトミーと、どこにでもあるような甘酸っぱい青春の日々を過ごしていた。
 ヘールシャムでは、のちに彼らに待ち受ける「提供」のことを話題に出すのはタブーだった。保護官はその話題になるとはぐらかしたり、黙りこんだしてして、彼らに全てを話さなかった。「提供」に対することを包み隠さず打ち明けるべきか否か。その問題に対する解答は保護官の間で決裂していた。秩序のある生活のために打ち明けないとする校長のエミリ先生に対し、自分たちの運命と早くから対峙するべきだとするルーシー先生の考え方は真っ向から対立していた。
 ヘールシャムの生徒はやがて15歳ごろになるとヘールシャムを「卒業」し、より小規模のコテージに生活の居を移す。そこで数年を過ごした後、さらにその先にあるのは、提供者を介護する介護人という職業だ。おそらくそこで「提供」に臨む覚悟をさせるという意味合いがあるのだろう。第一回の「提供」はどこからか通達が来るのだそうだ。キャシーは現在30歳で、優秀な介護人として過ごしており、まだ「提供」の経験はない。ヘールシャムの生徒たちは各地に散り散りになっていた。優秀であるがゆえに、多少のわがままを叶えてもらえる立場にあったキャシーは、かつてのヘールシャムの仲間であるルース、そしてトミーの介護人となり、彼らの最期を看取る。
 この小説を読んでいて不思議に思うのは、誰一人として、「提供」から逃げ出してしまおうとはしないことだろう。四六時中見張られているとか、「提供」を拒否した生徒がむごたらしく殺されたとか、逃げ切れない理由があるだとか、そういう描写は一切ない。(僕が見落としていいるだけかもしれないが)
 ただ、カズオイシグロの穏やかな筆致で描かれるのは、定められた運命を受け入れるのは自明のことだという諦観である。彼らは死ぬにはあまりに若く、エネルギーに満ちている。愛しあう二人の提供人は、その愛を証明できれば「提供」を遅らせることができるという根拠のないうわさ話に振り回されたりする。(彼女らの望みは提供を「中止」ではなく「延期」することだ。それも大きなポイントだと思う)そんな提供人たちは、「提供」を繰り返すうちに心身ともに衰えていく。その様は老衰に似ている。キャシーは、そんな提供人たちの介護をずっと行っていた。
 どう考えても異常な世界の話である。いくらクローン人間とはいえ、きちんとした教育を受け、友情を育み、恋をしたりしながら共同生活を営み、社会に出ていく彼女たちは立派な尊厳を備えた人間だ。その彼女たちの尊い生命を、ものを扱うように一方的に利用するなど異常としか思えない。「提供」のある狂った世界から、「提供」のないまともな世界へ逃げ出してほしいと何度も思う。でも、キャシーたちはそんなことを考えもしない。

 そこでふと気がつく。我々だって、彼女たちと大差はないのではないだろうか、と。医療技術が進み、あらゆる病に対する治療方法が確立されたとしても、まだ我々は死を乗り越えてはいない。彼女たちは30歳そこそこで命を終えたが、我々はその二倍から三倍程度生きながらえるだけだ。
 我々は幼い時期を大人たちの庇護のもとで生き、やがて成人して生計を立て、親を看取り、そして自らもやがて老い、死んでいく。
 いつか死んでしまうなんて、ひどすぎる!そんなことを声高に叫んでも、仕方がない。限りある生を全力で生きること。この作品のメインテーマはそこにあるのではないかと感じた。

 物語のクライマックスで、「どうしてもっと早くトミーと結ばれなかったのか」という後悔が描かれる。お互いに幼いときから愛し合っていながら、事情があって結ばれなかったキャシーとトミー。トミーが三度の「提供」を経験した後になって、ようやくキャシーはトミーと結ばれる。若く、エネルギッシュだったトミーを衰えさせるのに、十分な数の「提供」だ。キャシーもトミーも、この後悔を胸に抱えることになった。事情などかなぐり捨てて、もっと早くに結ばれれば、二人はもっと長く一緒にいられたことだろう。
 彼女たちの後悔がこの作品の芯にある。我々は、つい死すべき身であることを忘れてしまいがちだ。死は確かなもの、生は不確かなもの。だからこそ、今を生きるべきだ。この作品はそれを思い出させてくれる。