ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

獣を追い続けた男

 練習のために書いた短編小説です。

 イギリス在住の『僕』が余暇でドイツに行ったとき、不思議な老人と出会った話です。

 

 あれは僕がイギリスに住んでいたころの話だ。同僚のイギリス人にワイン好きなのがひとりいて、ボルドーのフルボディの赤はどうも奥さんの口に合わないという話をすると、それならドイツのワインはどうだと勧められたことがある。休暇を利用して古城めぐりのために夫婦でフランスに渡ったとき、古いフォルクスワーゲンをイギリスから持ちだしてワインを買い付けるためにドイツまで足を伸ばした。

 ワイナリーには二人で見学に行く予定だったが、パリで奥さんと喧嘩したために一人でドイツまで行くことになった。シュトットガルト郊外のワイナリーまでたどり着く間、右ハンドルのフォルクスワーゲンで右車線を走るのはひどく骨が折れた。おまけにナビが古くて道がいいかげんだったために何度も道を間違えた。ワイナリーについたときにはすでに見学ツアーは終わっており、なんとか無理を言って二本のワインを買い付けて帰るころにはすっかり日がくれていた。
 悪いことは重なるもので、エンプティランプに気がついた頃にガソリンスタンドは見当たらなかった。アウトバーンに合流できればなんとかなるのに例の古いナビのお陰で道をさんざん間違えたために森の路肩で車は止まってしまった。ロードサービスに連絡しようにも、持ってきた携帯電話はつながらない。ヨーロッパでボーダフォンの回線が通っていない地域だってまだあるのだ。世の中はまだ万能じゃない。ゆっくりと沈んでいく太陽と共に、森の闇は深くなる。灯り一つない田舎道は、僕の勇気をくじき始めていた。踏み抜いた小枝が音を立てて折れるように、心細くなる。
 僕がその老人と出会ったのはそんな偶然の積み重ねによって起こったできごとのせいだった。うごかなくなったフォルクスワーゲンを置いて、電話を借りるために歩きまわっていると、森の奥深くに1軒だけ小さなログハウスのような家を見つけた。
 いきなり猟銃を手にした髭面の老人に撃たれるかもしれないという想像が僕の脳裏をよぎったけれど、パリで僕の帰りを待っている妻にとりあえず連絡しなければ何を言われるかわからない。徹夜で電話の前にいたのに、と寝癖のついた頭でなじられるに違いない。
 ログハウスを見てみる。薪割り用のスペースには木クズとまだ新しい薪が何本か。屋根には煙突ついていて黒煙を出している。少なくとも人の気配はありそうだ。
 勇気を奮い立たせて玄関をノックしてみたが、返事はない。
 遠慮がちにノックしたせいかもしれない。今度は大きな音を立ててノックした。ドアが勢い良く開いて男が出てきた。
 まず、男はひどくやせていて老いさらばえていた。たるんで水分のなくなったかさかさの皮膚と、白くて硬そうな短髪の髪をしていた。顔は小さく、眉間に刻まれた皺が僕を睨みつけている。とても気安そうな相手とは言えない。さらに加えて、薄い上唇に古い小さな傷跡がある。ずいぶんと深いところまでえぐられたのだろう。傷跡は生々しくその場所で主張している。それは相手を不安な気持ちにするたぐいの古傷だった。
「こんばんは、怪しいものではありません」
 僕は頑張ってドイツ語でそこまで言ったが、次の言葉が出てこなかった。当然だ。僕のドイツ語のレベルなんて、数字を数えることと教科書的な挨拶をするレベルでもう何十年も止まっている。
 仕方がないので、英語で続けた。
「車がガス欠になってしまいました。できれば電話を貸してもらえませんか?妻がパリで僕の帰りを待っています」
 かなり長い間僕と老人は見つめ合っていた。
 そこで僕はふと思い至った。ああ、だめだ。
 ドイツの山奥で英語なんて通じるわけないのだ。ジェスチャーで意思を疎通させるしかない、と僕は思って受話器を耳に当てるしぐさをして「テレフォン」と連呼した。老人は何も言わずにこちらに背を向けて、家の中に入ってしまった。
 僕はそのときに肩を落とした。うらめしい気持ちで半開きになったドアを見ると、中から暖かいオレンジ色の光がこぼれている。すると、「早く入って来てドアを閉じろ」としわがれた英語が中から聞こえてきた。

 老人はひとりでこの森の中に住んでいた。
 イングランドからこの森に渡ってきて、その間ずっと狩猟をなりわいとして生きていた。ログハウスの中は暖炉と安楽椅子、小さな木のテーブルと座り心地のよさそうなソファが並んでいた。僕がそれを見ていると、老人は「これは俺の手作りだ」と教えてくれた。英語で話をできる相手がいてうれしいのか、彼は見た目よりもずっと饒舌だった。 
 電話が終わると僕は帰ろうとしたが、老人は僕を引き止めた。
「森は獣が出るから車に戻るべきじゃない」と老人は言った。残念なことに、僕の英語力はドイツ語力に毛が生えた程度だった。もっぱらイギリス人の同僚とパブで飲みながらアニメと女の子の話をして盛り上がることに使われるレベルで停滞していた。なにしろヒースロー空港の入国審査官に、そんな英語力でよくイギリスの企業に務められるわね、と小言を食らうくらいなのだ。
 そんなレベルだったので、老人の話を聞いていても、具体的に「獣」というのが何なのか、僕にはよくわからなかった。それは立派な二対の角を持ち、堂々たる体躯をしているというので、ヘラジカか?と聞いたが、どうも違うらしい。とても賢く、群れたりはしないが、仲間同士を思いやる社会性を持ちあわせているのだそうだ。
 老人はそれだけ話すと、部屋の奥の方まで歩いていって、古めかしい引き戸から一本の見事な角を持ち出してきた。それは大柄な老人の肩幅を大きく超える見事な角で、老人はそれを僕の目の前のテーブルにそっと置いた。
「これで身体を貫かれたくはないだろう」と言って老人は陰気な笑いをその唇に浮かべた。確かに、この角で一突きされればひとたまりもなさそうだ、と僕は身震いした。

 固いパンとスープの夕食をもてなされたあとで、妻のために買ったドイツワインのうちの一本を鞄から出した。一宿一飯の恩義にそれを開けようと僕が提案すると、老人は「そんな甘いワインは男の飲むものじゃない」と言って棚からウイスキーを出してきた。ラフロイグをショットグラスに注ぎ入れ、老人と僕は一本の巨大な角を囲んでそのウイスキーを飲み始めた。
 目の前にそんな大きな角があると、どうしても話題は獣のことになる。老人は、主に獣を仕留めることでこの何十年間をしのいできたのだという。老人は獣の話になるとほかの話よりも饒舌になり、滑らかに語りかけてきた。
 老人は長年獣を狩ってきただけあって、獣について多くのことを知っていた。何を食べて生活し、どこにいるか。獣は群れずに一頭でいることが多いが、実は鳴き声の聞こえる範囲でコミュニティを形成する縄張り意識の強い動物なのだ。獣は一夫多妻制だ。牡が一声呼べばその牡の縄張りの中で暮らしている牝や幼い子どもたちが集まってくる。幼い獣の牡が成長すると、縄張りから追い出され、新しい縄張りを形成しなくてはならない。
 縄張り争いになると、普段は温厚な獣も残酷な性質をあらわにすることになる。角が生えるのは牡の獣だけで、その大きな角は生きている間成長し続ける。立派な角を持つ牡同士が時折その角で相手を攻撃しあうのだが、縄張りを持った牡が負けた方はかなり悲惨なことになる。
 角で四肢を傷つけられ、再起不能にまで追い込まれるが、勝者の牡は決して敗者に止めを刺さない。死なない程度だがゆるやかに死に至る怪我を負わせ、森のなかに放置するのだ。獣は大きな悲しい声で鳴き始める。それは本当に大きな声で、地面の奥から響き渡るような声なのだそうだ。声は縄張りの森じゅうにひろがる。その声を聞きつけたその牡の家族が様子を見るために周りに集まってくる。かつての縄張りの主だった敗者の牡が鳴く声を聞いて、その身体をいたわり、舐めにくるのだ。勝者はそうしてやってきた牝の獣とかたっぱしから交尾する。牝は勝者を怖がって逃げようとするが、物悲しい手負いのあわれな夫の鳴き声に情をほだされて何度でも敗者の近くにやってくる。見えない引力がその鳴き声にあるらしい。何度でも敗者のそばにやってきては勝者に交尾を迫られ、ついには敗者の目の前でそれ許してしまう。
 勝者は、交尾できないほど若い子どもが縄張りにいた時には見つけ次第ぜんぶ殺してしまう。角を激しく腹に打ち付けて、何度も木と角の間に子どもを打ち付ける。敗者と敗者の子どもの鳴き声が森の中に響き渡り、子どもは内蔵を木の幹に飛び散らせながら絶命する。
 敗者の獣の目が光を失い、命の灯火が消え、最期の一息がその肺から絞り出されるまでそれは彼の目の前で行われる。誰もいない森のなかで、角を折られ、あちこちに傷をこしらえた大きな獣を中心に、若くて小さな獣が何頭も死んでいる姿を老人は何度も見かけた。

 老人は長年獣を狩り続けていたが、ひとつのポリシーがあった。獣を手負いにしないということだ。
「手負いになった獣の末路は悲惨なものだ」と老人は言った。
「だから俺が引き金を引くときは一撃で仕留める確信があるときだけだ」
 老人は静かにそう言ってウィスキーのグラスを傾けた。暖炉の方で乾いた木が燃えるぱちぱちという音が聞こえてくる。暖炉の光源に照らしだされて、老人の顔にはある種のすごみがあった。
「俺は獣に敬意を払っている。森のなかで俺と獣が向かい合うとき、それは尊厳をもった二つの命が向き合うときだ。わかるか?」
 老人にそう言われて、「なんとなく」と僕は答えた。僕はしがないエンジニアで、正直に言って生きた魚をさばくときだってかなり抵抗がある。活き造りはおいしいけど、尾頭付だと彼らの視線がかなり怖い。だからこの場合のなんとなく、は実生活に根ざした理解ではなく、頭では分かるというたぐいの「なんとなく」だ。
 しばらく僕と老人は黙りこんで暖炉のなかの火が燃えているのをみつめていた。時折老人は火箸をつかって中の木材をいじった。その沈黙の中になんとなく余白を感じて僕は黙っていた。理由はないけれど話の続きがあってそれを話してしまいたがっているように見えた。
「この角の持ち主は、俺が今まで狩ってきた獣のなかで一番大きかった」
 そう言って老人は話を続けた。ある晴れた春の朝に、老人は小川の水を飲むその獣を見つけたのだという。僕はその出だしに興味を惹かれて、飲んでいたウィスキーのグラスを厚い木の板でできたテーブルの上に静かに置いた。
それは不思議な体験だった。普通森の中ではいろいろな音がする。小川のせせらぎの音、木の葉が擦れる音、小さな動物が落ち葉の上を走る音。老人がその獣を見つけた時、不思議なことにそれら全ての音が消えてしまったという。
「静寂だけが森のなかに広がっていた。その経験は後にも先にもその時だけだった」
 老人はそう言った。
 老人は自分の耳を疑い、何度も首を振ってみたが、老人の周りの音は回復しなかった。そのあいだ、獣は木漏れ日の下で悠然と小川の水を飲み続けた。
 本能的にこの獣を狩ってはいけないような気がしていた。
 獣はこちらに気がついている様子はない。距離も老人が狩りのときに必要としている間合いを十分にとっている。本能はその獣を狩るべきでないと告げていたが、猟師としての矜持(そんなものがあるとして、だが。と老人は自嘲気味に言った)が本能に逆らって、老人を駆り立てた。背中にさげた銃を息を殺してゆっくりと身体の前に持っていく。そして、銃を構えて引き金に指を添えると銃口が震えていた。その時まで老人は自分が震えているのに気がついていなかった。初めて獣を撃った日もこれほどの震えは経験したことがなかった。老人は震えを抑えるために深呼吸して、息を止めて、引き金に指の力を集中させた。
 引き金を引き絞るその瞬間、獣がこちらに気がついたような素振りを見せて老人はうろたえた。狼狽は弾道になってあらわれた。消えていた音は、静寂を切り裂く火薬の爆ぜる音で破られた。反響音が老人の耳の中から消え失せると、再び森は普段の音を取り戻した。生きる者たちの立てる音に囲まれた静寂と平和さが老人の耳に届くようになった。
銃弾を受けて獣はその場で倒れた。小川の上にその巨大な身体を横たえて、身じろぎひとつしなかった。そのときの老人は高揚していた。
「初めて女とセックスしたときのような感覚だ」と老人は言った。
「触れられないと思っていたはるか遠くにあったものが手に入ったような気分だ。世界のすべてを手に入れたような、あるいは、自分が世界と同一化してしまったかのような身体の奥から湧き上がるような充足感だ」
老人は獣のそばに近づいて行った。あれだけ大きな獣だ。老人自身も2メートル近い身長があるが、獣はそれをはるかに超えている。早く手際よく解体して、小分けして持ち返らなくてはならない。あれだけの獣があれば、自分の食う分には3日は困らないし、うまくいけば売り物にもなる。もしも角に傷が付いていなければ、博物館が剥製にしたいと言っていた。そんなことを考えながら獣の近くに近づいていった。
「だが、獣は死んじゃいなかった」と老人は言った。
老人は小川のほとりに生えていた木の幹に猟銃をたてかけ、ハンティングナイフを鞘から出して近づいた。小川のせせらぎの上に横たわっている獣のそばに寄り、その肩に手をかけたとき、突然獣は身体を震わせた。
獣の頚椎を砕くはずだった銃弾は老人の狙いを外れていたのだとそのときに悟った。ハンティングナイフはおお振りだったが、それ一本だけで獣にはどうやっても立ち向かうことはできない。老人は獣に背を見せないようにじりじりと猟銃のほうに後退して行った。
獣は立ち上がり、老人の姿を認めると、大きな声で鳴いた。獣の角は2本のはずだが、その獣の角は一本だけになっていた。鳴き声は興奮して、怒りに満ちていた。老人は湧き上がる恐怖から、動くことができず、獣のことをずっと見ていた。
「あのときどうやって逃げたのか、興奮していてまったく覚えていない」
老人の手の中でこはく色のラフロイグがゆらゆらと揺れていた。老人は暖炉の火に照らされたそのきれいな色の液体を静かな表情で見つめていた。
「もみ合ってるあいだにあいつの角で傷をつけられたのと」と言って老人は自分の上唇の傷と、シャツをめくりあげて脇腹にできた痛々しい傷跡を僕に見せてくれた。
「気が付くと、猟銃とこの角を持って家に帰っていた」
老人は何針も縫う大怪我を負った。生死をさまよう高熱にうなされて、何度もその獣の夢を見た。
「熱が下がって身体がまた動くようになったとき、俺は相変わらず森のなかに銃を持って入っていった。結局のところ、どんな目にあったとしてもそれしか俺にはできないからだ」
老人のなりわいはまたその獣と出会うまえと同じように進行していった。あの巨大な獣を手負いにしてしまったことが、老人のなかでは気がかりだったが、片方の角しか持たない巨大な獣はその後一度も見ることはなかった。
今でもあの森の縄張りに生きているのか、あるいは若い牡との縄張り争いに敗れて殺されているのか、それは分からない。
老人にはドイツの民間企業に勤める息子がいた。大学者で教養があるが、父親のなりわいには興味を示さない息子だ。彼はすでに家庭を持って、子供もいた。
息子家族は時折休暇のときには男やもめの老人のもとに訪ねてきてくれた。老人の妻はもう何年も前に病気で死んでおり、以来老人は森のなかで一人で暮らしていた。都会の暮らしに慣れている息子夫婦は老人の暮らしを不憫に思い自分たちの家に住まないかと言ってくれたが、老人にそのつもりはなかった。いろいろと危ない目にもあってはいるが、老人にとっては慣れ親しんだ暮らしだし、森のことも獣のことも、あまりに深く老人の心に絡みついていて、そこから離れるということは考えられなかった。
8歳になる彼の孫は、父親には似なかった。
少年は老人のなりわいに興味を持ち、来るたびに獣の話を聴きたがった。獣がどういう習性を持っているのか、狩りをするのはどんな気持ちなのか、暖炉を囲み、ココアを飲みながらそんな話をした。狩りについて行きたいと少年が言い出すのに時間はかからなかった。
少年の母親は、老人の仕事への理解が薄い。口にだしては言わないが猟師の仕事を野蛮だと思っており、魚よりも頭のいい動物を殺すことは残酷だと思っているようだった。老人が少年に獣の話をすることもいい顔をしないので、少年は母親の顔が見えないときを見計らって獣のことを聞いた。
少年が狩りについて行きたいと言ったとき、当然彼の両親は反対した。なにしろ、まだ幼い子供だ。「義父さんの狩りの足手まといになる」と少年の母親は訴えたが、少年の狩りに対する情熱は冷めることがなかった。
あまりに強い彼の熱意にほだされた両親は、10歳の誕生日まで我慢してそれでもまだ狩りについて行きたいのなら、ついていってもいい、と彼の両親は言った。ただし、銃を撃つのは禁止だ。
おそらく、子供の熱意など2年も経てばすっかり冷めてしまうと両親は考えたのだろう。2年後、そんな彼の両親の思惑に反して少年の熱意は冷めるどころかますます強いものになっていた。心配顔の両親をよそに、夏季休暇を利用して遊びに来ていた少年はその日、早朝から老人の狩りに付き従うことになった。
少年が一緒に猟に出るのを老人は内心では嬉しく思っていた。
森に仕掛けた幾つかの罠を見て回るが、その日は何も収穫がなかった。熟練した老人の技術を持ってしても、罠に何もかかっていないこともあるし、一匹の獲物も獲得できないこともある。一人で狩りをしているときには諦めて帰るところだが、少年の夏季休暇の期間は決まっている。獲物を見ることができなくて少年が残念そうだったので、老人はすこしだけいつもの狩場から足を延ばすことにした。
森の中で倒木に腰掛け、干し肉のバゲットサンドを食べて昼食にしたあとで、老人は少年を連れてすこしだけ狩場の外へ出た。息を潜めて獣の水飲み場を巡っているうちに、老人は奇妙な既視感に囚われた。またしても音が老人の耳から消えたのだ。
その感覚は彼の孫にも伝わっているようで、元気いっぱいだった彼からは笑顔が消えていた。二人は心細い思いをしながら顔を見合わせた。そろそろ帰ろうか、と老人が少年の方を振り向いたときには、時はすでに遅かった。
ここまで近くに獣が忍び寄っていたことに、老人はまったく気がついていなかった。すこし遅れて歩いていた少年の脇腹を、獣の角がつき破るのを、老人は見た。それは一瞬のことだった。
巨大な獣の角は片方しかなく、獣は音もなく忍び寄って少年を角で弾き飛ばして木の幹にうちつけた。小さな少年の身体は角に乗せられ、木の幹に何度も打ち付けられる。悲鳴をあげることもできずに少年は声にならない声を上げ続けた。老人はあっけにとられたが、やがて理性を取り戻し、怒りの叫びをあげながら銃で獣に狙いをつけた。
すると、獣はぴたりとその場で停止して少年を串刺しにした角を老人のまえに差し出した。手を伸ばせば触れられそうな距離に、少年がぐったりとしている。老人は肺から小さな息を長く吐き出した。獣は少年を盾にしたのだ。少年は身体から生気が抜けて、口からも身体からもとめどもなく血を流していた。その目は焦点を結ばず、虚空を見つめたままだった。
少年がそのとき生きていたのか、すでに死んでいたのか、老人には分からない。しかし、どうしても老人には引き金を引くことができなかった。獣は角をそのまま老人の方に押し出して、弾きとばし、老人はそこから記憶がなくなった。
日暮れ近く、森の中で老人がようやく目をさますと、獣の姿も少年の姿もどこにもなかった。
「息子夫婦とは以来絶縁状態だ」と老人は静かに言った。僕は何も言うことができずにただうなづいた。「俺はいまでもあの獣を探して森の中を毎日彷徨ってる」老人はラフロイグをぐっと煽って、そのまま黙り込んだ。


ドイツの森での奇妙な出会いから1年がたった。僕は次の日に無事にパリで奥さんと合流してイギリスに帰っていた。仕事をしていても、パブで飲んでいても、奥さんと食事をしていても、あの森の出来事が頭のどこかにあった。暗い森の中で、手負いの獣同士が憎み合いながら永遠に彷徨っているところを考えると、いたたまれないような気持ちになった。
もちろん、僕に何かができるわけではないけれど、証人として老人の話を聞くくらいのことはできるし、また、奇妙な話ではあるけれど、あの話を聞いた時点でその義務が発生したような気持ちになっていた。
ドイツへの1ヶ月の長期出張が決まったのは、そんなタイミングのことだった。同僚に羨ましがられながら、いろいろなお土産を頼まれたが、僕はあの老人のことをまた訪ねてみることで頭がいっぱいだった。ドイツでの仕事が終わったある朝に、僕はイギリスから持ってきたラフロイグの瓶を持って、レンタカーを借りて老人のログハウスを訪ねてみることにした。いつか老人のことを訪ねる日が来ると予想していたので、僕はインターネットの地図に老人の家があったあたりをブックマークしていた。ドイツで借りたレンタカーはきびきび動いていたし、ナビも比較的新しかったので老人の家にはすぐに着くことができた。
朝の森は1年前に訪ねたときとは印象がまるで違って見えた。明るく開けた森の明かりはいかにも健康的で、あのときに感じた心細さはいまではまったく感じなかった。
1年前の記憶をたどりながら僕が老人の家をノックすると、しばらくして若い男が出てきた。
彼は老人と同じくらい長身で黒縁のメガネをかけており、どことなく神経質そうな顔の作りをしているけれど、おおむね好意的だった。
「やあ、よく来てくれました」と男は笑みを浮かべて僕を招き入れてくれた。突然のことで僕はすっかり混乱してしまって、男の招きに応じることができずに立ち尽くした。
「さあ、どうぞ遠慮しないでください」とたぶん言っているのだろうと思ったけれど、それは彼の表情とジェスチャーからそうだと思っただけだ。若い男は終始ドイツ語で僕に話しかけていた。騙されているような気分で僕はラフロイグの瓶が入った手提げ袋を持ったまま部屋のなかに入っていった。
部屋の中は1年前に見たときよりも綺麗に整理され、森からの自然光が入ってずいぶんと魅力的に見えた。猟師のための道具や生活感がなくなり、手作りのソファや椅子も、小綺麗な工業品でまとまりのあるインテリアに変わっていた。いわば、あの老人らしさのようなものはその家から綺麗に、念入りに脱臭されているようだ。
若い男は相変わらず僕に対して親切で、何かと僕をおもてなししてくれようとしている。今は奥の棚からコーヒーをマグカップに入れてくれようとしている。
「あのう」と僕は遠慮がちに言った。
「ここに1年ほど前には老人が住んでいたと思うんですけれど」
僕が英語で若い男に説明すると、男は複雑な表情を僕に向け、それから肩を落とした。
「ああ、あの人のお客さんか」と彼は英語で言ってため息をついた。

ログハウスは売りに出されていた。若い男は僕のことを、ログハウスを購入するために見学しに来たドイツ企業に勤める中国人だと勘違いしていた。ログハウスの販売情報はあらゆるメディアに掲載していたし、見学は彼の仕事がない土日に限っては随時受け付けていた。
「買い手は見つかりそうですか?」と僕が聞くと、男は肩をすくめてみせた。
「なにしろ何もないところだからね」と笑った。
その日見学に来る予定だった中国人の夫婦は約束の時間になっても来なかったので、彼は暇だったのかもしれない。僕と彼はまだ真新しい大量生産プロダクトのソファに座ってコーヒーを飲んだ。
「君が彼に会った最後の人じゃないかな、たぶん」と彼は言った。「それ以来ずっと音信不通でね、この家の所有権は息子夫婦に移ったんだけど、中のものは全部捨てて家は適当に処分してくれって依頼されたんだ。ひどい話だけど、まあ気持ちはわからなくもないかな」と言って彼は僕の方を見た。
たぶん、どの程度老人とその家族のことを知っているか値踏みしているのだろう。
「彼の孫の件ですか?」と僕が聞くと、若い男はうなづいた。
「まったく、両親にとっては気の毒な話だよ。嫌がってる孫を狩りに連れて行って死なせてしまうなんてね」
「嫌がってる?」と僕は小さく復唱した。若い男は不思議な顔をしただけで、それに対して何も反応しなかった。僕は小さな疑問を胸に残したまま、コーヒーをすすった。
「それ以来老人はおかしくなっちゃってね、まさか、君のような知り合いが彼にいるなんて思わなかった」
ちょっと偏屈ではあったが、老人におかしなところは感じなかった、と僕が説明すると、「そう?」と言って若い男は首をかしげた。
「まあ、もともとあの人は猟師の間でもおかしな人で有名だったんだけどね。ここらの猟師が獲物にしてる獣のことは知ってるかな?」
僕がうなづくと、若い男は続けた。
「彼の獣の狩り方は、ほかの猟師からも非難を受けてた。彼が獣を見つけると、わざと致命傷にならない傷を与えるんだ」
僕は彼の言葉に混乱した。僕の混乱をよそに、若い男は話を続けた。
「そうすると、獣は大きな声で鳴き始める。場合によっては近寄って行ってハンティングナイフで腹を裂いたりすることもあるらしい。とにかくそうして動けなくして鳴かせていると、次々と獣が心配して寄ってくるんだ。彼はじっと林の影に隠れて様子を伺って、その中から売り物になりそうな立派な獣だけ次々と撃ち殺す。
この辺りの猟師はみんな獣に敬意を払っている。だから、確かに効率的ではあってもみんなそういう狩り方はしなかった。老人はみんなから軽蔑されていて、それは本人も自覚があったみたいで、こうして山奥に閉じこもってほとんど人と話さなかった」
「孫が死んだのは?」と僕が聞くと、若い男は肩をすくめてみせた。
「事故だって言われている。たぶん、まだ息のあった獣に近づいた孫が獣にやられたんだと思う。さすがに老人も取り乱していて、しばらくその場で立ち尽くして、怒鳴ったり泣いたりしてたらしい。
老人がわめくのを聞いて駆けつけた猟師によると、死んだ彼の孫の隣には見たこともないくらい大きな獣が横たわっていたらしい。見事な角の牡の獣だったけど、どういうわけか片方の角が根本からぽっきり折れていてね、老人はその折れた角を手に持っていたそうだよ」
僕は若い男に何もいうことができずに、ただ呆然と彼の方を見ていた。
「猟師のひとりが、老人が猟に出ているのを見かけたことがあるんだけどね」と若い男は言った。
「あのときの大きな角を持って森の中を彷徨っていたいたらしい。残念だけど、たぶんもうあの老人とは会えないんじゃないかな」
僕は若い男にコーヒーの礼を言って、老人のために買ったラフロイグの瓶を置いていこうとしたが、若い男は「気持ちはうれしいんだけど、ウィスキーは苦手なんだ。悪いね」と断った。
運転してフランクフルトのホテルに戻るまでのあいだ、眼前に広がる森を見るともなしに眺めていた。あの森の奥に分け入れば、まだあの老人が死んだ獣を追いかけているような気がした。