ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

視覚表現のその先 読むドラッグ ウルトラヘヴン

時間とは何だろうか?そして、自我とは何なのか?

果たしてそれらは本当に存在するものなのか?

自己同一性の拠り所となるのは、時間の連続性に他ならない。朝トーストを食べ、信号待ちで危険な車と危うく接触しそうになり、朝礼ギリギリでなんとか出社時刻に間に合う。
この連続した時間の中に生きていると認知しているからこそ、時間という概念を理解し、僕達の自我が揺らぐことはない。

でも、それが何らかの理由で揺らいでしまったら、自分が自分であると確証を持てるだろうか?

 

 

 

 


読むドラッグと評され、薬物によるトリップの感覚を漫画的表現で見事に表した怪作といわれるのが本書。

とかく視覚表現力の高さに注目が集まるけれど、この作品の魅力はそれだけではない。

例えば、ドラッグ中毒の主人公、カブがガールフレンドとスパゲッティを食べるシーンがある。彼はそれを彼女が作ったものだと思いこみ、「お前にこんな料理の才能があるなんてな」と褒める。
トリップによって前後不覚になった彼は、自分がそのスパゲッティを作ったことを覚えていないのだ。
だから彼女に「何言ってるの、それはあなたが作ったのよ」と指摘されても、それをにわかには信じられない。

我々の世界では原因があり結果がある。時間は未来に向かって流れ続け、決して逆流することはない。
当たり前のことのように思えるが、最近の研究では、それもまた脳が作り出した錯覚なのではないかという学説が一部で唱えられている。
脳による認知であるならば、ドラッグを使ってその認知を歪めることができそうだ。
ドラッグをトリガーとして時間の連続性が揺らぐとき、原因も過程もなく、結果だけが押し寄せてくる。

その世界は一体どんな世界なのだろうか?
たとえば朝礼に遅刻した時、もしかしたら交差点で曲がってきたあの車と接触したのかもしれない。あるいは、朝食として食べたトーストを焦がしてしまったからかもしれない。

困ったことに、カブの認知が間違っていて、我々の認知が正しいのだと証明する手立てがない。

もしも僕達の記憶が、脳がこしらえたまがい物だとするならば、世界は五分前に作られたものかもしれない。有名な世界五分前仮説だ。

今、この瞬間しかないのだとすれば、脳は絶えず結果に対しての原因を言い訳としてこしらえており、僕たちはそのいいわけをただ信じているに過ぎないのかもしれない。

本作は、ドラッグや瞑想によってそうした脳の機能を解放するアプローチだった。
よく似た話に小林泰三の短編小説「酔歩する男」がある。
死んだ想い人に会うために、時間の連続性を認知する脳の部分を外科手術で取り去った男の悲恋の話だ。ウルトラヘヴンを気に入った人はこちらもおすすめしたい。(玩具修理者に収録

 

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

 

 

時間の連続性がなくなった男は、狂人か、それとも悟りを開いた者か。意識と時間を巡る謎は尽きない。