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ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

沼地に草木は根付かない 沈黙サイレンス 感想

イギリスに半年間住んでいたことがある。2012年の夏から年末にかけてだ。半年とは言えイギリスの家屋に住み、イギリス人と机を並べて仕事をしていた。

イギリスの家屋は日本とはまるで設計思想が違う。気候が違うのだから当然といえば当然だけど、イギリスでは断熱効果を高め、外気を遮断し、セントラルヒーティングと呼ばれる熱した湯を部屋中に送り込んで家全体を温めるシステムによって暖を取るが、日本の伝統的な家屋は風通しを良くして自然の風を取り入れるように設計されている。
欧米の人間は行動に理由を求めるが、日本人は行動に共感を求める。
英語は言葉からしてロジカルだが、日本語は情緒的だ。
英語の一人称単数はIだけだが、日本語は「僕」「私」「俺」「わし」「おら」「おいら」「余」「我」。あとは、『朕は国家なり』の「朕」なんてのもある。
英語で主語が省略されることはほとんどないが、日本語ではしばしば主語は省略される。「私」は消えてなくなるのだ。

電通の新入社員女性の自殺が過労死認定され、大きな話題になっている。そんな日本の社会情勢をアメリカ人のマーティン・スコセッシ監督が見越している、はずはないのだけれど、なんだか関連性を見出さずにはいられない。それはこの作品に永遠不変の真理が含まれているからなのかもしれない。
以下ネタバレを含みます。

 

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 

 

マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の「沈黙」を読んで衝撃を受けたように、15年前にこの本を読んだ僕も大いに衝撃を受けた。
細かい筋はかなり忘れていたけれど、僕の中で印象に残っているのは、宣教師の一人が殉職した後、海がとても穏やかで美しかったというシーンだ。
遠藤周作は、記念碑にこんな言葉を残している。

人間がこんなに哀しいのに
主よ
海があまりに碧いのです

殉教か棄教か、それがこの小説のテーマだ。
美しいもののために死ぬのは容易いが、醜いもののために死ぬのは難しい。作中で語られる言葉だが殉教を恐れぬ美しい教徒のために死ぬことは宣教師にとっては名誉なことだ。しかし、それが醜く、愚かな人間のためであったとしたらどうだろうか?

キリスト教弾圧下の長崎、師匠のフェデイラ神父が棄教したと聞いた若き宣教師のロドリゴとガルペは、その知らせを信じられず、周囲の反対を押し切って日本に渡ってフェデイラの行方を探すことを決意する。当時、キリスト教を認めない長崎政府は、踏み絵や拷問によって殉教か棄教かをキリシタン達に迫っており、日本はキリスト教徒にとってそこにいるだけで生命を脅かされる危険地帯だった。
日本語を喋ることができない二人の宣教師を案内したのが、窪塚洋介演じる「キチジロウ」だ。
踏み絵を拒否し、拷問の末に殉教する他のキリスト教徒の中にあって、彼だけがあっさりとキリストや聖母マリアの絵を踏む。彼はロドリゴをして卑しいと言わしめるほどの人物だ。必要であれば踏み絵も厭わず、十字架に唾さえ吐く。家族を裏切り、村人を裏切り、宣教師を裏切り、そして主を裏切る。そしてそのたびにロドリゴの前に現れて告解をしてくれと迫る。

一方、ロドリゴの性格は周囲の反対を押し切ってまで日本に来たことからも分かるように敬虔なクリスチャンであり、殉教を恐れない。神のため、信仰のためであれば喜んで身を差し出す覚悟ができている。しかし、ロドリゴは結局のところ転んだ(棄教した)。

一見対象的な二人だが、僕はこの二人をコインの表と裏のように感じた。
ロドリゴポルトガル人で、日本人にキリスト教を広める宣教師であり、キチジロウは日本人で、彼らからキリスト教を学ぶ立場にある。

初めは日本人キリシタンたちの純粋な信仰に心を打たれるロドリゴだったが、物語が進むにつれて日本人にキリスト教を教えることの難しさに直面する。日本人キリシタンは、表面的には敬虔だが、信仰の対象として物を欲しがる。ロドリゴは十字架(ロザリオ)を始めとして自分の持ち物を彼らに与えるが、これはカトリックではご法度の偶像崇拝にあたるのではないかとロドリゴが懸念するシーンがある。

同じように、キチジロウも日本人でありながらキリスト教を理解することに苦しんでいるように見えた。
華々しく殉教する他の立派なキリシタンのように振る舞うことができない、臆病な自分を卑下しているのだ。
弾圧下でなけば自分だっていいキリシタンでいられたのに、とキチジロウは嘆く。

日本にキリスト教が根付かないことを比喩し、「沼地に草木は根付かない」と映画の中で表現される。
キリスト教は絶対不変の真理であり、環境によらず根付くはずと考えていたロドリゴにとって、この主張はどうあっても受け入れられない。

一方で、日本人は自然の中にしか神を見出さず、ロドリゴたちの懸命な教えも虚しく、彼らが正確にキリスト教を理解することはない。キリスト教では、死者は直ちには神の国には行かず、最後の審判の後で選ばれた者だけが神の国に住む。何度説明しても、その概念は農民たちには伝わらない。

何故なのか?

個人的な解釈だが、欧米人と日本人は「自我」に関する解釈が大きく異なるからだと考える。
欧米人にとって自然は征服するもの、所有する対象であるが、日本人にとってのそれは同化するもの、あるがままに受け入れるものだ。
仏教では忘我を一つの徳とみなす。我欲を捨て、煩悩を捨てることで自然と一体化して苦悩から解き放たれることを解脱といい、解脱したものを悟りを開いたものと解釈する。
宗教とは、どうにもならないものごとに対してどう折り合いをつけるか?という側面がある。自分を強く持ち神が与えたもうた試練を戦い抜くキリスト教と、自分を無くして苦しみから解き放たれる仏教ではあまりに考え方が違いすぎる。

神道仏教の世界観にあまりに長く浸ってきた日本人にとって、キリスト教を正しく理解することは適合しないソフトウェアを強引にインストールさせようとしているようなものだ。
このせめぎ合いに真っ向から向き合ったのは、主人公のロドリゴとキチジロウだった。そして二人の出した答えは皮肉にも反対のものだった。

主人公は転び、以後は神の名を口にしなかったが、天寿を全うし、仏教式の火葬にだされた。しかし、彼の手にはロザリオが握られていた。キチジロウは踏み絵のときに首から下げていた聖母の絵のせいで殉教する。踏み絵はするというのに、わざわざそんなものを首から下げていたのは、消極的な殉教のようにも思える。これらは彼らが出した彼らなりの信仰だったのだろう。

お前は私に負けたのではない。日本という沼地に負けたのだ。沼地に草木は根付かない。

長崎奉行の井上は転んだあとのロドリゴにこう説く。
現代にあっても、人間の力ではどうしようもできないことというのはまだまだたくさんある。例えば無宗教であっても親が死んだら葬式は出す。どうしたら人間らしく生きていくことができるのか。どんなに人間が哀しくても、それでも神は沈黙している。