ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

すべての部品が置き換えられたとき、同じ人物といえるのか ゴーストインザシェル

 

テセウスの船というパラドックスがある。
ギリシャ神話のテセウスという英雄がクレタ島から帰還したときの船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれを大昔から保存していた。しかし、当然櫂は使っていれば老朽化する。朽ちて使えなくなった櫂は新たな木材に置き換えられていた。

これが論理的な問題から議論になった。
すなわち、「船の構成部品がすべて新しいものに交換されたとき、それは同じ船といえるのか?」あるいは「置き換えられた古い部品を集めてなんとか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのか?」

という議論だ。

ゴーストインザシェルの世界では身体を義体と呼ばれる機械に置き換え、脳をその機械の中に入れる。
脳には記憶を司る海馬があり、中脳には呼吸や運動と言った動作を司る場所がある。視覚や聴覚といった五感からの情報を分析、思考、判断し、行動というアウトプットを行う。その中枢になっているのが脳だ。
身体こそ違えど、記憶と人格を受け継いだその存在は、たしかに自己同一性があると言えそうだ。しかし、例えばその記憶が何者かに捏造されていたとしたらどうだろうか?まったく別の人間の記憶が埋め込まれていたとしたら、その人間は果たして義体化されるまえと同じ人間だと言えるだろうか?

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 


はじめに断っておくが、僕は攻殻機動隊をあまり良く知らない。
草薙素子とバトーのビジュアルと名前は知っているが、スタンドアローンコンプレックスをちょっとだけ視聴して(合わなかったので途中で中断)原作の第一巻をちょっとだけ読んで(合わなかったので途中で中断)、という程度の知識だ。
じゃあなんでこの映画を見たのかと言えば、トレイラーがめちゃくちゃかっこよかったからだ。もっと言えば、僕の好きなブレイドランナーにビジュアルがとても良く似ていたからだ。

巨大なホログラム映像、自分で「高級ホテル」と名乗ってしまうアヤシイ日本語遣いの高級ホテル。街は雑多でごちゃごちゃしていて、薄汚く、妙に生活感にあふれている。
ゴーストインザシェルの世界は、遠い未来の話ではあるものの、20年、あるいは30年前に考えられたであろう『少し古い時代に考案された未来』であり、レトロフューチャーと呼ばれる世界観に満ちている。

 

ブレイドランナーの世界を今の最新の技術で再現したものが見たいなあと思っていた僕にとってはまさに「俺得」という感じだ。どうしてこれが僕の心を引くのかと考えてみると、それがハリウッドの世界から見たアジアの世界だからだろうと思う。つまり、見慣れたものを別の視点から見るという新鮮さを持っているからだ。

 

攻殻機動隊、あるいは「ゴースト」というコンテンツも、ハリウッドによって翻案されている。攻殻ファンにとっては草薙素子の設定が変えられたり、コミカルなタチコマが出てこなかったり、公安9課の設定が詳細に説明されていなかったりすることが気に入らないみたいだが、もしも冒頭で言及した「テセウスの船」について、あるいは「ゴースト」についてより哲学的に深い議論をするのであれば、やはりこの設定が最適解であるように思う。(ただ、確かにスカーレット・ヨハンソンの演技は最高だったけれど、この脚本ならミラ・キリアンはアジア人であるべきだった)

どう生きたかではなく、どう生きるか、がその人間を形作るのだ、というのが本作の「テセウスの船問題」に対する結論だ。それは厳しくもあるが、実は優しさも含まれている。
もしも記憶だけがその人間を形作るアイデンティティなのだ、という解であれば、過去の罪は永遠に消えないことになる。過去の記憶ではなく、現在をどう生きるのか。それに気がついたゴーストインザシェルの草薙素子は、残りの人生を草薙素子として生き直すことに決める。

賛否両論ある映画ではあるけれど、僕は良い映画だったと思う。