ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

グレート・ギャツビーを三回読む男なら俺と友達になれそうだな「騎士団長殺し」

新刊のたびに全国ネットのニュースになり、ノーベル賞のたびに噂され、存命にも関わらず全集が出る。(僕も持ってる)

こんな小説家は僕の知る限り日本では村上春樹だけだ。

そんなわけでもちろん騎士団長殺しには発売前から注目していたし、Amazonで予約して購入し、かなり期待を込めて読んだ。
読みながら僕は思った。
もう村上春樹も68歳なのだ。この作品は彼の「集大成」なのかもしれない、と。

 以下、結末には触れていませんが、一部ネタバレを含みます。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

 

 

中編〜長編くらいの長さである「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」からは四年。大長編の「1Q84」からは七年ぶりとなる久しぶりの大長編の作品がこの騎士団長殺しだ。あらすじの情報が一切ない状態でタイトルだけがネットで発表されたとき、村上春樹、ついに初のファンタジーに挑戦か?と騒がれた。


僕は、「アーサー王物語の円卓の騎士を下敷きにした小説だったらいやだなあ」と漠然と思った。
なぜなら、新刊が出たら必ず買う、と村上春樹が公言しているイギリス人作家のカズオ・イシグロが「忘れられた巨人」というまさに円卓の騎士をモチーフにしたファンタジー小説を二年前に刊行したばかりだったからだ。
老齢を迎えた村上春樹に他人の模倣などしてほしくないと思った。

 

しかし、騎士団長殺しを読んですぐに、その心配が杞憂であったと知る。
騎士団長殺しの冒頭、妻を若い男に寝取られた主人公が茫然自失のていで古いプジョー205に乗って東京を出て、東北から北海道まで延々とセンチメンタル・ジャーニーに繰り出したからだ。


「ああ、いつもの村上春樹だ」と安心した。

大学生だった「ノルウェイの森」の主人公ワタナベトオルが失恋したときに日本海側(北陸?)を放浪したのと比べてちょっとスケールが大きくなっただけだ。

そうなると贅沢なもので、今度は村上春樹がこの「騎士団長殺し」で何も挑戦していないのではないか?と不安になってきた。他人の模倣はしてほしくないが、「何か新しいことに挑戦しているはず」という期待が僕の中ではあった。
他の多くのレビュアーが指摘しているように、村上春樹が過去に何度もモチーフにした、喪失からの再生、クラッシック音楽、オペラ、ジャズのオールドレコード、料理、人妻のガールフレンド、現実世界と異形の世界を行き来する世界観などなど、がこの小説でも描かれている。

 

自己模倣だ、過去の自分の作品の焼き直しだ、と非難を受けているようだし、実際はじめのうちは僕も同じ印象を受けた。
これじゃあいつもと同じ村上春樹じゃないか、と。(まったく勝手な話ですが)
でも、それが谷を挟んで向こう側の豪邸に住む白髪のハンサムな紳士、免色渉の登場でその印象が覆った。
高級車のジャガーを何台も所有し、どうやってその財産を築いたのかは一切不明。山の上の真っ白な豪邸に住んで、夜になるとその豪邸のテラスから山の下の「ある民家」を双眼鏡で覗くミステリアスな紳士。
免色渉はある事情からその豪邸を半ば強引に買い取り、『ある女性』の姿を偶然に眺めることができるのではないかと夢想しながらテラスに出ている。

彼の設定や佇まいはグレート・ギャツビーの登場人物であるジェイ・ギャツビーそのままだ。

村上春樹は自己模倣したのではなく、1番自分が書き慣れたものを使って、1番書きたいと思っていたものに挑んだのではないだろうか。

 

この作品のタイトルになっている「騎士団長殺し」は架空の日本画家、雨田具彦の絵画作品のことである。
モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の中に、騎士団長殺しの一幕がある。主人公が騎士団長の娘に恋をして夜這いをかけたところ、父親である騎士団長に賊と思われ決闘になる。そして、やがて主人公は騎士団長を殺してしまう。

舞台はヨーロッパであり、登場人物たちの名前もドン・ジョヴァンニをはじめ、レポレッロ、ドンナ・アンナなどと洋風だ。しかし、それをあえて雨田具彦は飛鳥時代の日本に翻案して絵画を完成させた。
絵画としての騎士団長殺しはオペラから日本画への翻案であるが、小説としての騎士団長殺しはどうだろうか?

 

僕はこの騎士団長殺しという小説自体がアメリカを舞台としたグレートギャツビーからの翻案であると感じた。

ご存じない方のために説明したいが、グレート・ギャツビーは、主人公ニック・キャラウェイと、彼の隣人で、毎夜宴を開く謎の大富豪ジェイ・ギャツビーを軸に描かれる。
ギャツビーはかつての恋人デイジーに近づくために邸宅を購入し、パーティーを開く。そして偶然にもニックとデイジーが親戚筋にあたると知ると、ニックにデイジーとの仲介を頼む。

こちらグレート・ギャツビーのレビューを書いています) 

一方騎士団長殺しの免色渉のほうは、「自分の娘であるかもしれない少女」を追っている。偶然にも主人公が彼女の絵画教室の先生であることを知り、免色は少女の肖像画を書いてもらうことを主人公に依頼する。
そして、主人公が彼女の絵を書いているときに彼女を紹介して欲しいと頼むのだった。

 

村上春樹は徹底して平易な言葉の組み合わせでイデアを持ち上げることを試みる作家だと僕は認識している。
たとえば、「友情」や「愛情」、「他人との絆」といったものは、実際には目に見えるものではなく、言葉にしてしまえばただの『記号』になる。そこから連想される実体のある「何か」は人によっては違う。

 

例えば、ああ、こいつとは本当の友達だなあ、と感じた瞬間が、誰しもあるだろう。それは多分その瞬間には手に掴めそうなほどにリアルな質感を持っていたにちがいない。しかし、それは言葉にすることができないし、他人と共有することもできない(もしもそれが容易に他者と共有できたとしたら文学は生まれなかっただろう)

 

誤解を恐れずに言うならば、そうした「友情」や「愛情」、「他人との絆」と言った目に見えない何かをイデアといい、村上春樹はそれを卓越した言葉のリズムによって「持ち上げる」ことに強い関心を持った作家だと、僕は思う。

グレート・ギャツビーを読んだ若き日の村上春樹が何を思い、どんなイデアを持ち上げられたのか。そして、この「騎士団長殺し」で何を持ち上げようとしているのか。

ぜひ老年期を迎えた村上春樹の気迫を感じ取ってほしい。

 

なお、表題の『グレート・ギャツビーを三回読む男なら俺と友達になれそうだな』とは、村上春樹が若い頃に書いた出世作の「ノルウェイの森」に登場する主人公の先輩「永沢さん」のセリフだ。

眉目秀麗、成績優秀で家柄もよく、自信家で女にモテる永沢さんとごくごく平凡な大学生にすぎない主人公のワタナベを繋いだのがグレート・ギャツビーだった。二人はグレート・ギャツビーから得たイデアを共有していたのだ。

だが、あるポイントでそれが異なるものだったと気がつくことになる。

ノルウェイの森もおすすめです。

 

 

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ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

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