ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

ウォーキング・デッドがつまらなくなったのはなぜか?ドラマの起きない人間ドラマについての考察

シーズン8を観終わって思った。
悲しい。
わくわくして次の話を待ち望み、次の日に仕事があるのに深夜まで貪るように見てたあのウォーキングデッドは死んだ。このシーズンを通して見て感じたのは、ウォーキングデッドが残念な、よくあるゾンビドラマに成り下がってしまったということだ。

ウォーキングデッドが面白くなくなったのはなぜか、いろいろなメディアが取り上げている。
登場人物が多すぎて彼らにキャッチアップ出来ないから、過剰すぎる暴力表現のせいで視聴者がひいてしまったから、超人気キャラクターを死亡させてしまった結果、彼目当てで見ていた視聴者が離れたから。

ナンセンスである。それは問題の本質ではない。

遅々として物語が進まず、どうでもいいキャラのどうでもいいエピソードが挿入されるから、というのはちょっとわかる。

一言で言えば、「劇的な出来事は起こってもドラマが起きていない」からだ。

そして、物語が進んでないと感じるのも、今エピソードが進んでいるキャラクターがどうでもいいと感じるのも(おっと、タラの悪口はそこまでだ!)「ドラマ」が起きてないせいだ。

かつてのウォーキングデッドに戻ってほしい。その一心で筆をとった。 

 

かつて、人間ドラマだったころのウォーキング・デッド 


B級映画とかでよくあるのが、劇的な出来事は起こってもドラマが起きていない、という状況だ。つまり、爆炎があがり、美女が惨殺され、陽気な黒人が撃たれてもその映画を見ている私達視聴者にとって、「ああ、大変だ、たぶん大変な事が起こってるみたいだ」という以上の感想が出てこない状況のことを言う。
では、かつてのウォーキングデッドにはドラマがあったのか?
そう、そこには確かにドラマがあった。
例えば、シーズン1、2といえば、保安官リックと彼の元同僚であり親友でもあったシェーンの確執が大きな軸として存在した。

 

病院で気を失っていた主人公リックは目覚めると、そこが生ける屍たちによって支配されていることを知った。自宅に帰っても妻ローリと息子カールはすでにいない。彼らが避難したのだと考えたリックは二人を探し求めてジョージア州の田舎町からアトランタへ向かう。しかし、大都市はすでに屍たちによって占拠されている。リックは資材調達に来ていたグレンに助けられ、命からがらアトランタ郊外で野営をしているコミューンにたどり着く。そのコミューンにはローリとカールがいてリックはつかの間家族と再会を喜ぶ。そしてそのコミューンをリーダーとして率いていたのは、かつてのリックの同僚であり友でもある、シェーンだった。

 

死者たちの溢れかえる世界において、これまでの秩序は崩壊し、明日をも知らぬ生活を強いられるなか、何をして生きていけばいいのか誰もがわからなくなっている。これがウォーキング・デッドを貫く大きな柱だった。登場人物は全員「このタフな環境の中で生存しなくてはならない」という命題を突きつけられている。

 

ところで、この場合のドラマとは「行動」を意味する。
もしもドラマに「行動」がなければとてつもなくつまらないものになるだろう。仮に髭面のおっさんがカウチに座って液晶テレビを見ながらポテトを食べているだけの番組だったら、そんな映像は何も面白くない。でも、そこにもしゾンビが乱入してきたらどうだろう?おっさんは驚き、それから何らかの行動を取るだろう。逃げる?隠れる?戦う?それともここが自分の家であり、あなたはわたしの家に不法に侵入しているのだ。いますぐ出ていかないと保安官を呼ぶぞ!と警告する?(最後の行動を取った場合、すぐにスクリーンから退場しそうだ)

 

行動はその人間の性格が反映される。同じ事態に直面したとしてもとりうる行動はその人間の数だけある。
つまり、「行動」と「性格」(あるいはライフスタイル、と呼び替えてもいい)は直結している。

 

話をコミューンに戻す。
リーダーであるシェーンは、野営地にとどまり、救援が来るのを待つべきだと主張する。それに対し、リックは野営地が柵もなく、見晴らしも悪いため、屍たちの襲撃に耐えることができない、とし、今すぐもっと安全な場所に移動するべきだと反論し、二人は対立する。このタフな世界において、正解などは存在しない。

リックたちのコミューンはこのあと屍たちの襲来によってコミューンに多大な損害が出てリックの主張の正当性が証明される。この世界においてはいち早く過去の秩序を捨て、新しい環境に順応した人間が生存できるのだという現実が突きつけられる。

リックは当初の言動を見る限り、行動的なリーダーとして捉えられる。行動に「痛み」が伴うとしてもそれを勇気を持って断行する。もしも彼が行動的でなかったらジョージア州の田舎町から出ずにとどまって一人で生存することも選択できたし、野営地から出ないでシェーンと仲良くやっていくという選択肢もあった。しかし、リックという行動的なキャラクターがそれを許さなかった。途中で危険を伴うとしても、事態を好転させるために行動を起こす姿は、人々に勇気を与えるとともに人を引っ張っていくカリスマ性を発揮する。

そして、このドラマが出色なのは、マッチョなリーダー候補だけがドラマをつくるわけではないというところだ。幼い息子カールは世界が完全に変貌を遂げてしまったことを知り、サバイブするために銃の扱いをリックから習おうとするが、母親のローリはそれに難色を示すし、アジア人のグレンはリーダーにはなれないがそのはしっこさとアトランタの地理に強い(元ピザ屋の配達だった)という特徴を活かし、調達係としてコミューンの役に立とうとする。そして、ローリはリックと再会する以前、彼が死んだと思っていたため、シェーンとの間に肉体関係を持ってしまう。これも立派な彼女の生存戦略だ。シェーンはリック不在の間、彼に代わってローリとカールを守ってくれる力強い男性だった。

 

また、ゾンビのことを「ゾンビ」と表現せず、「ウォーカー」と表現したのもいい。
彼らにとってウォーカーはかつての妻であり、妹であり、父であり、夫であり、隣人なのだ。
例えばリックが初めて遭遇する生存者のモーガンは、ウォーカーに転化した妻と離れられずジョージア州の田舎町に釘付けになっている。理性では彼女がかつての妻に戻ることはないと理解しつつも彼女に銃を向けられないでいる。

かつて自分の大切な人だった存在に対して手垢のついたゾンビなどという呼び名で呼ぶことができるだろうか?獣医だったハーシェルは彼らのことを患者と呼び、納屋に匿っていた。

ウォーキング・デッドはかつて、ゾンビドラマでありながら人間ドラマだった。
困難な状況にあってそれぞれが自分のキャラクターにもとづいて最適だと考える行動を取り、その結果他人との軋轢が生まれ、それがドラマになる。

 

ダブルスタンダードに陥るスタメンたち。彼らは五分前に生まれた人間であるかのようにふるまい始めている。 

 

では、最近のシーズンではどうだろうか?
確かに思いもよらないキャラクターがひどいやり方で惨殺されてしまったし、アレクサンドリア、キングダム、それからニーガンと勢力が増え、それに伴ってキャラクターもどんどん増えていく。リックたちの安住の地を巡る戦いはもはや戦争とでも呼べるレベルに激化している。


過去の過ちを許すか?それとも裁くのか?
それがニーガンを巡る戦いのテーマだったと思う。リック、ミショーン、カール、モーガン、キャロル。
人情に厚く、寛大だったキャラクターが突然冷酷になったり、冷酷だったキャラクターが突然人情に目覚める。それが最近のシーズンの傾向として顕著だった。殺すか許すか製作者かスポンサーがサイコロを振って決めてるのだろうか?というくらい行動に一貫性がない。
普通、人間のライフスタイルはそう簡単には変わらない。

だが、物語において登場人物のライフスタイルが変わるのは問題ない。というか、大歓迎なのだ。もしも丁寧にそのキャラクターの性格を書き、彼、彼女に何が起きたか書き、さらにその結果どうなったかを書けば視聴者を感動させることができる。重要なキャラクターがなんらかの出来事で変化する物語は常に需要がある。しかし、問題は「突然」というところだ。


例えばキャロルは初登場時、夫からひどい暴力を受け、それに震えながら甘んじる気の弱い女性キャラクターだった。キャロルにとっては娘のソフィアだけが全てだった。娘のためなら他のすべてを犠牲にする。
しかし、あまたの理不尽な現実に直面したのち、メンバーでも屈指の戦闘力を持つ女性キャラクターに成長する。といっても、細身の女性なので、力が強いわけではない。彼女の強さの源はためらわないことだ。相手がウォーカーでも人間でも決してためらわない。ときに愚鈍なハウスワイフのふりをして相手の寝首をかき、二秒前まで気さくな笑みを浮かべていたと思ったら態度を豹変させて子供であろうとも平気で脅しつける。

キャロルが変わるきっかけになったのは娘、ソフィアの死だった。かなり印象的なシーンで、ここで詳細は書かないが、あれだけ娘のことを第一に考えて生きていた人物が「あの体験」をしてしまったらライフスタイルががらりと変わるのもうなづける。
一方で、彼女は一貫して利己的であり、「限られた本物の仲間だけが無事ならそれでいい」というライフスタイルのもとで行動している。
そういう目で見ると、初期に彼女が共同体の中で愛想よくしているのも、夫の暴力に耐えているのも、「ソフィアを保護してほしい」という意図が透けていた。

キャロルの保護対象が、初期の「ソフィア」から「自分自身のみ」、そしてメンバーの中でも特に「ダリルだけ」と遷移していったふしがあるが、一貫して彼女は自分のライフスタイルを堅持していた。だから彼女の行動はいささか極端ではあるが納得できるものだったし、しばしば仲間と衝突したとしても彼女の言い分にも一理あるとうなづかされた。

ところが彼女は最近のシーズンで突然博愛主義に目覚め、「これ以上仲間が傷つくのを見たくない」と隠居してしまったかと思いきや、また戻ってきて無為な殺しはしなくていいとモーガンに説くようになってしまった。
(突然ではない、これこれこのシーンのここで彼女が変わったのだ、という反論があるかもしれないが、突然変わってしまったと視聴者に印象を与える脚本に問題があるのだと思う。物語のメインストリームでないなら一貫して同じ性格にするべきだし、物語のメインストリームならもっと丁寧に彼女の変化を追うべきだったのだ)

最近のウォーキング・デッドのキャラクターは、まるで5分前に生まれた人間のようだ。物語が都合よくうごくために意見をころころ変えるような人間同士では人間ドラマは作れない。

ウォーキング・デッドが面白くなくなってしまったのは、こうした「人間心理に対する理解の浅さ」が原因だと思う。もちろん、そんなもの必要ない、という作品もあるし、そういう作品が大ヒットを飛ばすこともある。(マッドマックス、バーフバリ、シン・ゴジラなど)しかし、ウォーキング・デッドはそういう作品ではなかったのだ。もしもはじめからウォーキング・デッドが重厚な人間ドラマを書くゾンビドラマではなかったとしたら、ぼくはさっさと見切りをつけていただろう。

好きだからこそ持ち直してほしい。あるいは、シーズンのすべてを統括するような強いメッセージ性を持ったシーズンを描いた上でフィナーレを迎え、有終の美を迎えててほしい。そう思って筆をとった次第だ。