ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

部屋に象がいる 『細雪』

英語にこんな慣用句がある。

There is an elephant in the room.

直訳すれば、この部屋には象がいる、となるのだが、なんとも奇妙な言い回しだ。部屋に象などいるはずもないし、象のような巨大な生き物が部屋にいれば誰もが気がつくことだろう。
この言葉の真意は『いまこの場所には誰もが気がついてはいるものの、決して話題に上げることの許されない、タブーがある』ということだ。

細雪は昭和初期における日本のアッパーミドル階級の嫁入りに関する物語だ。彼女たちのセリフは品格のある船場言葉が用いられる。血を分けた姉妹でありながら決して面と向かって本音を言わない。つまり、それぞれの立場上話題にできない数限りない『象』が出てくる。
『象』は始めは小さな存在だったが、次第に大きくなっていく。ふと気がついたときには、姉妹たちはこの大きな象のために分断され、彼女たちの関係性は完全に損なわれている。

物語は1941年4月26日で終わるが、折しもその年の年末に英米を相手にとった太平洋戦争が始まり、日本軍の敗色は濃厚になっていく。

果たして、象を作る人たちは外から見えるほど華やかで高貴な存在なのだろうか?

以下、ネタバレを含みます。

 

細雪 全

細雪 全

 

 

 

 本書は上、中、下の三巻で成立している非常に長大な話である。
主な登場人物は、蒔岡(まきおか)家の四姉妹、長女 鶴子、次女 幸子、三女 雪子、四女 妙子の四人。それに、鶴子の夫 辰雄、幸子の夫 貞之助を加えた6人となる。
四姉妹のうち、未婚なのは三女の雪子と、四女で末っ子の妙子の二人だ。ざっくり言えば、上巻を雪子の婚活、中巻を妙子の恋愛、下巻を彼女たち二人のそれぞれの娘時代の決着だと読んだ。

 

四者四様の姉妹ではあるものの、特に未婚の二人の姉妹の性格は対称的だ。
いかにも旧家のお嬢さん然とした雪子は、自分の意見をはっきり述べない。電話が苦手で、おろおろと狼狽えて自分宛ての電話になかなか出ず、出たと思えば誘いを不躾に断って相手を激昂させてしまう。見合い相手の感想を姉妹に尋ねられてもいいとも悪いともはっきり返事をしない。
それに対して妙子はいかにも自立心旺盛な女性で、日本人形作りや洋裁などで身を立てようとフランス留学の計画を立てるなど、キャリアウーマンを目指すかのように自立のために奮闘している。彼女は若い時駆け落ち未遂を起こし、また終盤では身分、素性の知れない相手との子供を身ごもってしまうなど無軌道なところがある。


一見正反対な二人ではあるものの、「ある一点」を除いてすごく似ているのではないかとぼくは思う。

ドイツの心理学者、アルフレッド・アドラーは感情には目的がある、と言っている。例えば、「怒りをコントロールすることができない」という女性がいたとする。彼女は自身の子供が粗相をしたときにカッとなってこれを叱る悪癖をやめたいと常々思っているとする。しかし、アドラー心理学に言わせれば、彼女は怒りをコントロールできないのではなく、怒りをコントロールして利用しているのだ。彼女は子供を叱っている最中烈火のごとく怒り狂っているが、一度電話が鳴れば愛想よく電話に出る。こういう光景はよく目にすることだろう。彼女は怒りに支配されているわけではなく、怒りを完璧にコントロールしている。では、その怒りの目的とはなにか?といえば、自分の子供に言うことを聞かせることだ。

 

話を細雪の世界に戻す。辰雄、鶴子の長女夫妻の本家は蒔岡という家の格調を重んじ、様々な抑制を彼女たちに強いる。その最たるものが、「東京行き」だ。
蒔岡家の家業だった船場を畳んでいた辰雄は婿入り前の職業だった銀行員に戻っており、東京の本社に転勤となる。四姉妹にすでに両親はいないので、辰雄は世間体を考えて雪子と妙子を東京に引き取ろうとする。
これに対し、雪子はおとなしく従うが、妙子は辰雄から逃げ回る。本家に従わなかった妙子は東京で同居するか、それとも絶縁か、の二択を迫られ、怒りを爆発させる。東京の本家で暮らすくらいなら死んだほうがまし、とまで断ずるのだ。
また一方で、おとなしく従った雪子も喜んで東京行きに応じたわけではない。彼女は部屋にこもってしずしずと泣き暮らし、鶴子や幸子の憐憫の情を誘う。
また、雪子はほとんどうつ病一歩手前という状況になっているにもかかわらず、関西に戻れるとわかった瞬間から機嫌を取り戻しているところにも注目したい。
彼女たちは明らかに東京行きという抑圧に対し、別々の感情を利用して対処している。妙子は『怒り』、雪子は『悲しみ』だ。


二人がどうしてこのように複雑かつややこしい策を弄して自分の意志を婉曲的に本家に伝えなくてはならないかといえば、彼女たちが未熟な子どものままであるからだ。しかし、彼女たちが子どものままで成長できない原因を彼女たちだけのせいにするのはフェアではなかろう。責任の多くは後見人たる蒔岡家の弄するダブルスタンダードにほかならないからだ。
鶴子にしても幸子にしても、「家のことを考えよ」と大人としての自覚を芽生えさせようとする一方で、彼女たちを子供扱いし、庇護下に置こうとする。後見人たちは彼女たちにとって耳の痛い事実を隠し、見てみぬふりをする、事実を歪曲する、なかったことにする。


もしも他人を支配したいと思ったら子供扱いするのが一番だ。あなたは弱く、成人男性の後見人か、または夫の庇護下にいなくては生きていくことはできない、と言われながら育てられれば、少女たちは怒りか悲しみを利用して周りに働きかけるしかない。

 

相手が庇護の対象であるならば、彼女たちを守るために不都合な事実は歪曲されるか、あるいはタブーとすることが正当化される。なぜなら「世間知らずのお嬢さん」なのであり、「世話は後見人がみてあげなくてはならない」「弱い存在」だからだ。

 

例えば、雪子に関しては以下のようなことが執拗に記述される。
・婚期が遅れているということ
・最近目元にしみが目立つようになってきたこと
・こちらが断るばかりであったのに、いつの間にか断られる側になり、縁談の数自体も減ったこと

 

雪子に関して特筆すべきは、目元のしみだ。本当に執拗に、何度も何度も繰り返し出てくる。これは谷崎が「部屋の中の象」を強調させるために何度も繰り返したのではないかと思う。(もちろん、この慣用句を谷崎が念頭に置いていたかはわからないが)

 

また、妙子に関しては、
・啓坊との駆け落ち事件のせいで雪子の縁談に影響が出ていること
・啓坊が実家の貴金属店の品物を盗んでは妙子に貢いでいること
バーテンダーの三好と身分違いの恋をしていること。

 

特に三好との恋の件について、幸子はこの話題をあえて本人に持ち出さず、『本人が自発的に自らの過ちに気づいてくれること』を期待して放置した結果、結局は三好との婚外子を設けるという最もスキャンダラスな結末、幸子本人曰く、「煮え湯を飲まされるような」事態に至った。

 

一見華やかで格式の高い文章でアッパーミドルクラスの風流な生活が語られる作品であるが、その結末は決してハッピーエンドではない。というか、むしろ暗く、陰惨だ。まずは妙子の恋愛の結末。彼女は本人曰く、啓坊と縁を切るために三好との間の子をもうけ、その子どもを流産してしまう。
雪子は最終的に華族の御牧と結婚するが、彼に職はなく、生活の見通しは暗いうえ、門出を下痢の描写で汚している。これは一体何を暗示しているのだろうか?

 

1941年という年に注目したい。
1940年9月27日、日本はドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結んだ上、1941年7月28日に南進してフランス領インドシナに進駐。その結果アメリカを含めた連合国との間に戦端が開かれる。日米が争った太平洋戦争の勃発だ。
太平洋戦争の状況は当時こぞって日本の新聞社が取り上げたが、真実は歪曲されていた。1942年6月5〜7日に行われたミッドウェー海戦で、例えば日本軍は航空母艦四隻をすべてを失う大敗北を喫していたが、「戦意高揚」のため、その事実は過小評価され、損失は航空母艦一隻であると国民に伝えられた。あくまでも日本軍は勝ち続けているのであり、戦意高揚のためには事実を曲げることすらいとわない方針が取られ続けた。

まさに、『部屋に象がいる』である。


ラストシーンの重要な局面で谷崎が二通の手紙を紹介するのが象徴的だ。
同盟国であるドイツの二箇所。ハンブルグからはヒルダ・シュトルツ。ベルリンからフリーデル・ヘニングが幸子宛に手紙を書いている。これは谷崎が、この小説が単なる日本のアッパーミドルクラスの嫁入り物語ではなく、もっと大きな、世界の中での日本全体を象徴するような物語であることを示唆しているようにも読める。

 

部屋のなかにいる象を直視できない人間は多い。痛みを伴う決断を先延ばしにすれば、そのツケはいつか必ず回ってくる。当時の日本が『部屋にいる象』と向き合っていれば救えた生命があった。歴史にIFはないが、そう思わないではいられない。ミッドウェー海戦で負けたときにポツダム宣言を受託していれば、勝ち目のない沖縄本土決戦はなかったし、あるいはもっと前、日独伊三国同盟など結ばなければ、さらに遡れば、バスに乗り遅れるなとばかりに周りの欧米列強の帝国主義に飲まれずに、防衛のみに専念していたのなら……。


細雪のラストがこんなにも暗いのは、日本がこのあとで滅びに向かっていく姿を暗示しているように思う。
啓坊と縁を切るだけのために種をもらった男と結婚して、果たして幸せになれるのだろうか?華族という政界から近しい場所に位置する家柄の男と結婚し、戦争の憂き目から無関係でいられるはずもない。
部屋に象がいる。これは彼らの罪の物語であるとともに、わたしたちの将来の罪の物語であるのかもしれない。