ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

「世界の敵」と人類の重大な脆弱性について アンダーグラウンド

 

霊長類の脳の大きさと、群れの数には相関関係があると言われている。
オマキザルの一種「タマリン」という小さなサルでは5個体、ニホンザルなどが含まれる体の大きな「マカク属」では40個体。
なぜ霊長類が群れを形成するかといえば、単純にそのほうが生存確率が上がるからだ。外敵の脅威を察知するにも、より大きな獲物を狙うときにも群れの数が多ければ助けになる。

 

では、人間ではどうだろう?人類の脳からはじき出される「群れ」の数はどうか?イギリスの人類学者、ロビン・ダンバーは約150人であると規定している。これを、提唱者にちなんで、ダンバー数と呼ぶ。

 

我々現代人は外敵に襲われる心配もないし、徒党を組んでマンモスを狩猟に出かける必要もない。にもかかわらず、おおよそ150人程度のグループを組む。学校の一学年もその程度だし、人数の大きな会社の部はだいたいそのくらいの人数で構成されているように思う。こうしてみるとこの数字にある程度の妥当性があるように感じるのではないだろうか?

 

ダンバーによれば、150人というのは人間の脳がリアルに知覚し、個体を識別できる限界の数なのだそうだ。それ以上周りに人間が増えると、人間の脳はその違いを知覚することができない。
約150人。マンモスを追いかけ、木の実を採集していた時代ならともかく、現代社会ではいささか心もとない数字だ。日本の人口は1億四千万人。世界人口は七十億。人間の知覚をはるかに超えているし、殆どが群れの外側にいる人間、ということになる。

 

だとするならば、人間にとって、自分の群れの外にいる人間はどう見えるのだろうか?普段一緒に過ごす家族や、職場の人間。友人、趣味の仲間、あるいは同じ学校に通うクラスメート。そういった「群れ」の内側に対して、外側にいる人達のことを、我々はどう認識しているのだろう?


おそらく、自分の群れの外にいる人間は、「記号」になってしまうのではないかと思う。日本人にとっての外国人。男性にとっての女性。大人にとっての子供。アーリア人にとってのユダヤ人。そして、オウム真理教信者にとっての異教徒。

村上春樹はこのインタビュー集を、オウム関係者ではなく、地下鉄サリン事件の被害者から始めた。まえがきにはこう書かれている。

私はできることならその固定された図式を外したいと思った 。その朝地下鉄に乗っていた一人一人の乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合した形での 物語があったはずなのだから 。ないわけがないのだ。それはつまりあなたでありまた私でもあるのだから。

神奈川の自宅に戻っていた村上春樹は、ニュースで事件のことを知った。彼はもっと多くのことを知りたいと思ったが、ニュース報道に出てくるのは皆、顔のない被害者だった。
彼はニュースでこのような印象を受けた。オウム真理教は理解できない絶対悪で、被害者は善なる存在である、と。報道では単純な図式化、記号化がなされていた。

 

でも、立場を変えてみれば、オウム真理教の教団関係者たちにとっては日本の行政の中心である霞ヶ関が「世界の敵」という記号を与えられた存在だったのであろう。記号化された対象に対して、人はどこまでも冷徹になることができる。それは、第二次世界大戦時のホロコーストでも明らかだ。
たしかに記号は複雑な概念を考えるときに不可欠な存在である。記号、それ自体がなければ我々の知性は痩せて、枯れてしまうだろう。しかし、我々は記号だけを信じてよいものなのか。

 

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

 

 

 


1995年3月20日。通勤ラッシュ中の午前八時ごろ。オウム真理教幹部たちは、千代田線、丸ノ内線荻窪行/池袋行)、日比谷線東武動物公園行/中目黒行)の地下鉄車両に液体のサリンガスが入ったビニール袋に、グライダーで尖らせた傘の柄を突き刺して放置した。もちろん、すべての地下鉄が日本の行政の中央である霞が関駅に停車するのは明確に意図されていたことだ。同時多発的に発生したこの事件での全負傷者5000人。死者は11人。


アンダーグラウンドは、村上春樹が初めて挑戦したドキュメンタリー作品という位置づけだ。しかも、前述の通り、主として地下鉄サリン事件の被害者にフォーカスした作品となっている。村上春樹は被害に合われた人たちとアポイントメントを取り、実際に対面して膨大な量のインタビュー集を編集、作成し、それを地下鉄サリン事件の一次資料として発表した。

 

その動機は本人の言葉を引用したように、極めてピュアなものだった。
与えられた記号を外したい。換言すれば、それは、150人という限られた群れしか認知できない我々の脳が持つ「脆弱性」への挑戦だ。
そして、面白いことに、数多くのインタビューを通して、この試みは村上春樹自信も想像していなかった「意外な方向」へと向かっていくことになる。

 

本書を読んでいると、事件のとき、自分がどれだけ気分が悪くなったとしても会社に出かけていこうという意識を持った人が多いように感じる。また、ホームで倒れている人がいたとしても、会社に遅刻しないようにするために見過ごした、あるいは自分も気分が悪いからその場を去っていった、という人が多かった。後悔するような口調で「置き去りにしたのだ」と話した人もいた。


これは、顔のわからない記号よりも、顔のわかる150人の群れを優先した、ということなのかもしれない。だからといって、誰も彼らを裁くことなどできない。このような極限状態に置かれたとき、自分がどう行動するか、ぼく自身にも自分の行動を想像することができない。村上春樹は、あとがきで我々の住む一般社会とオウム真理教のことについて、こう述べている。

 

その暗さと歪みをいったん取り去ってしまえば、そこに映し出されている二つの像は不思議に相似したところがあり、いくつかの部分では呼応しあっているようにさえ見える。

 

もちろん、「われわれだってどこかで間違ってしまえばオウム真理教に入って地下鉄でサリンを撒いていたかもしれない、という単純な話ではない、と村上春樹はことわっているし、ぼくもそう思う。

 

ただ、オウム真理教元信者のインタビューが収められた「約束された場所で」を読むと、オウム真理教という特殊な宗教団体が極めて我々のロジックと近い原理で動いているのがわかる。
彼らはヒエラルキーを持ち、そのなかで認められることを目指している。
彼らの多くは現実世界に折り合いをつけることが難しくて入団したにもかかわらず、逃げ込んだ先もおなじ力学が支配した場所だった、と述べている。

 

教団はわれわれの世界よりもずっと堅固な学歴社会であり、信者は常に競争にさらされている。殺人マシーン林泰雄は、過去にスパイと間違えられたため、麻原の信頼を得るために過剰に張り切ってしまう傾向があると描写されている。現に彼は、地下鉄サリン事件では、自らすすんで余ったサリンの袋を、他の実行犯よりも一つ多く持ち出した。

 

本来は生存のために群れをなしているはずなのに、群れのために喜んで命を捧げる動物もいる。例えばミツバチは巣を守るために自らの命を捧げる。われわれは生存のために群れを作るが、時として群れのために生存をなげうつときがある。マズローの欲求5段階説でいうところの所属欲求が、ときどき生存欲求を上回ることがある。それも、どうやらその傾向が強いのは真面目で思いつめる性格の人物のようだ。

 

我々の脳は約150人の人間しかリアルに知覚することができない。群れの外から離れた人間は、ほとんどが記号になってしまう。その記号がどんな形をしているか、我々に確かめるすべは無い。海底に敷かれた光ファイバーケーブルによって、スマートフォンで5秒で打ち込んだ情報が一瞬にして全世界と繋がってしまう。そんな現代科学技術の世界に対して、人間の脳の限界とはなんとちっぽけなものか。


我々は脳の知覚の限界を超えた存在に対して記号を当てはめる。その記号の形が「世界の敵」だったとき、我々は慎重にならなくてはならない。それは本当に自らの生命を賭して戦うべき相手なのか?蛇蝎のごとく嫌うべき宿敵なんだろうか?
我々は、我々の脳が持つ脆弱性について考えなくてはならない。「世界の敵」とは、我々の脳の脆弱性、それ自体のことであるのかもしれない。