ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

与えよ、さらば奪われん 「白痴」

 

ルカの福音書 第6章に、
「与えよ、さらば与えられん」
という言葉がある。

まず相手に与える。すると、与えたものは自ずと姿を変えてあなたに戻ってくる。ただし、このときあなたは決して見返りを求めて行動してはならない。無償の愛こそがあなた自身の救いとなる。日本の格言で言えば、「情けは人の為ならず」といったところか。

 

与えよ、さらば与えられん。
これはたしかに真理だ。

 

相手を尊敬しないものは相手から尊敬されないし、相手を愛せないものは相手からも愛されない。

 

白痴にはさまざまなキャラクターが出てくるが、基本的には主人公であるムイシキン公爵と、それ以外の人間に分けられると感じた。

 

狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミは大きなことを一つだけ知っている。(古代ギリシャの詩人 アルキロコス

 

ハリネズミはムイシキンを象徴するのだとドストエフスキーの研究者は語る。では、ムイシキンの知る大きなひとつだけのこととは一体何か?

それは「与える」ことではないだろうか。与えることを知るムイシキンが、奪うことしか知らぬ者たちの中に入った時、キリストの如きこの若き聖者は如何なる運命を辿るのだろうか?

 

以下、結末まで語ったネタバレを含みます。

 

白痴1 (光文社古典新訳文庫)

白痴1 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 ムイシキンのパーソナリティを語る上で印象的なシーンは二つ。
スイスでの長い療養生活を終え、ロシアに着いたばかりの彼は、真っ先に遠縁の親戚であるエリザヴェータ夫人を訪ねた。ボロをまとい、ほとんど無一文だったので、エリザヴェータの夫であるエパンチン将軍からは金の無心にきたのだと誤解された。しかし、「ただお近づきになりたいのだ」とムイシキンは説明する。それから(ここがムイシキン公爵のすごいところだと思うのだが)ロシアに知り合いもいなければ、金も持っていない、ないないづくしの身分にもかかわらず、「ぼくもエパンチン家の何かの役に立つかもしれない」と主張した。

 

さらに、本作のヒロインであるナスターシャとの出逢いのシーンである。ムイシキンはナスターシャの写真を見るなり、彼女の抱える問題に気がつき、それに対して何かしてあげられるのではないか?何かを差し出せるのではないか?と感じている。

 

つまり、ムイシキンにとって愛とは差し出すものであり、彼が相手になにかを差し出すとき、一切の見返りを求めてはいない。

 

一巻はそれでうまくいっていた。
ムイシキンは成金で素行の悪いロゴージンをして、「お前のことが大好きだ」と言わしめるし、エリザヴェータ夫人や彼女の三人の娘たちにも好意的に受け入れられていた。

ムイシキンと、彼を取り巻く人々のの状況に変化が現れるのは彼が遺産を相続した二巻以降だ。ムイシキンは遺産を相続して金持ちになる。この遺産相続の結果、彼は「ボロを纏った聖人」ではなくなる。

 

この時よりさまざまな人間が彼から彼が持っているものを奪おうとする。それまでは外国帰りの一風変わった貧乏な青年貴族として認知されていたが、二巻以降からは家柄と財産を持ったひとかどの人物として認知されるようになり、それが逆に裏目に出ることになる。アグラーヤは「そんなことも知らないの?」と事あるごとにムイシキンの無知をなじるようになるし、レーベジェフやイッポリートは、ムイシキンを試すような言動を取るようになる。

 

彼らがムイシキンから奪おうとしているものは何か?
それは愛であったり、尊敬であったり、人徳であったり、その人物によってさまざまなものだ。彼らがムイシキンから奪おうとするものは、基本的には彼ら自身が追い求めてやまないものである。しかし、それをムイシキンから奪おうとするとき、彼らはそれを手にするどころかますます遠ざかることになる。

 

もしも愛や、尊敬、人徳を得ようとするのなら、まずは他人に与えなくてはならない。しかし、ムイシキン以外の人物、つまり、ナスターシャ、アグラーヤ、ロゴージン、レーベジェフにイッポリートなどの登場人物にはそれが分からない。与えてしまったら自分の取り分が減ってしまうから、それらは相手から奪うものだと考えている人間たちだ。彼らはムイシキンから一方的に奪おうとし、一方でムイシキンは彼らに与えようと努力する。彼らはムイシキンからそれをどれだけ奪っても、自身の乾きから逃れることはできない。

 

ムイシキンはラストでまた白痴になる。しかし、ラストの白痴は、以前の「白痴」とは違う。以前彼が白痴と呼ばれていたのは、彼が与えよ、さらば与えられんというキリスト教的教義を守っていたからだった。そして、それを他の誰も守っていなかったから、彼は周りから白痴に見えた。つまりあまりにも周りと異なる行動規範のもとで行動していたからこそ、彼は周りにとって「白痴」に見えたのだ。

 

しかし、ラストで彼が陥った状態はこれまでの白痴とは違う。一切その状態の彼の描写はないが、そう思えてならない。ムイシキンはもちろん不幸だが、彼から全てを奪い去っていった者たちはどうだろう?彼らは幸せなのだろうか?

 

これは警句なのであろう。奪うことしか知らないものは、相手からその全てを奪おうとし、それが叶わないと知るや、その美しいものを辱め、破壊し尽くしてしまう。人々のそうした渇望こそがムイシキンのような完全に美しいものを破壊する。

 

最後に、ムイシキンの言葉を引用したい。
彼が初めて会ったナスターシャに求婚した際、ナスターシャはその求婚をはねつける。
ナスターシャは、ムイシキンのことを、世間知らずで無一文、乳母が必要な存在である、と評する。そうした上で、あんたなんかが、一体自分にどんな愛を与えてくれるのか?と彼に問いかけた。それに対して彼は以下のように答えた。

 

ぼくはこう思っています。名誉を与えるのはあなたであって、ぼくじゃないって。ぼくはほんとうにとるに足らない人間です。

 

白痴という小説を通して描きたかったのはこの一言だったのではないだろうか?
与えよ、さらば与えられん。
与えることは難しいことかもしれないが、少なくとも、与えてくれた者から全てを奪い去るような恥知らずな行動はとりたくないものだと思う。すべてを破壊し尽くしてからでは遅いのだから。