ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

周回軌道上の衛星たちは気の毒なライカの夢を見るか 「スプートニクの恋人」

なぜ、宇宙飛行士もロケットも人工衛星も出てこないこの小説の題名が、「スプートニクの恋人」なのだろう?この小説を読み解く上でこれ以上の問いはない。そこから始めたいと思う。

世界初の人工衛星が宇宙に向かって打ち上げられたのは、1957年のソ連だ。一連の計画には「旅の道連れ」あるいは「付属するもの」という意味を持つスプートニクという名前がつけられた。
その後、1961年、ソ連ボストーク1号ユーリ・ガガーリンらを乗せて初の有人飛行に成功し、1968年、アメリカのアポロ11号ニール・アームストロングらを乗せて月面着陸に成功する。

普通宇宙開発を話題にするとき、我々はこのように輝かしい功績について語りがちだ。
しかし、もちろんその功績の裏には身を結ばなかった努力や尊い犠牲もある。Wikipediaによれば、宇宙開発関連の事故で宇宙飛行士や整備士、近隣住民などを含めていままでに少なくとも71名が死亡している。物語の冒頭で解説されているライカ犬人工衛星スプートニク2号に乗って162日間地球の周回軌道上を周り、その後大気圏に再突入して消滅した。

なぜこの小説の題名が「スプートニクの恋人」なのか?
それは、村上春樹が宇宙開発の輝かしい側面ではなく、闇の部分の一つであるあの気の毒なライカ犬を引用したことにヒントがあるように思う。

 

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

 

 

 

 

結論から言えば、この小説のテーマは、「断絶」ではないかと思う。
懸命な努力と血を伴う犠牲にもかかわらず、宇宙は我々に明確な答えを示してはくれない。もちろん宇宙開発の目的はそれだけではないが、地球以外の他の惑星で知的生命体はおろか、今なお生命らしきものの痕跡すら見つかっていない。

話を「スプートニクの恋人」に戻す。
この作品が他の村上作品と比べて珍しいのは、ヒロインであるすみれが小説家志望の女性であることだ。彼女は主人公から見れば才能を感じさせる小説書きなのであるが、彼女の小説が売れて日の目をみることはない。

わたしにはもともと何かが欠けているのかもしれない、と相談してきたすみれに対して主人公は中国の門の話をする。立派な門を作ってもそれだけでは不十分で、門としての機能を果たすためには呪術的な儀式として生きた犬の血が必要だとすみれを諭す。つまり、恋をして人を好きになるという比喩としての「痛み」の経験が小説にとって不可欠だと言いたいのだろう。ところが彼女には性欲がなく、恋をしたこともない。経験の話なんてしないで。性欲のない小説家なんて、食欲のないコックみたいなもの、とすみれは嘆く。

ところが、その会話の後、すみれはまるで嵐のようにミュウに恋をして、彼女に対し抗いがたい性欲を抱えることになる。

この作品の中には多くの一方通行の恋が出てくる。主人公はすみれのことを愛しており、2人は分かち難く互いを必要とはするものの、すみれは主人公を愛してはいない。すみれはミュウを愛しているが、その愛が帰ってくることはない。さらに対象を人以外に広げて言うならば、ミュウはピアノに対してその人生の全てを捧げたが、ピアノの方から見返りはなかった。すみれの小説にしてもそうである。文学をどれだけ愛し、極めようとしても、文学はすみれに応答しようとはしなかった。

「職業としての小説家」という本の中で村上春樹は以下のように語っている。

 

あなたに小説が書けるというのは、あなたが他の惑星に住む人々と連絡を取り合えるということなのです。

 

「他の惑星」とは比喩的な表現であろう。我々は人と会い、言葉を交わすことはできるが、その心の奥底にまで手を触れるのは容易なことではない。それは時として光の速さでしか測りえないほどの途方もない距離だとすら感じられる。

なぜ、これほどまで強くすみれが文学を愛し、文学を愛するかのようにミュウを愛するのか?それはすみれの原体験に由来するのではないか。彼女は実の母親から無条件の愛を注がれた経験がなく、ハンサムな彼女の父親は口下手で母親を字がきれない人、という奇妙な人物描写でしか語ることができない。
すみれにとって(そして恐らくは作者である村上春樹にとっても)文学とは、他の惑星に住む人々へ向けた儚いメッセージだったのかもしれない。

誰かの心に触れたい、自分のことをわかってほしい、誰かと心を分かち合いたいと思うのは、人間としての根源的な欲求なのではないかと思う。

我々が宇宙に寄せる感情とは、一方通行の恋のようなものかもしれない。生まれ落ちてこの世に生を受けてから、ただ仕事をして食べて、眠るだけでは人間は決して満たされない。自分以外の他者と心を分かち合いたいという欲求がある。

結果として、以下で本人がそう語るように、すみれは永遠にミュウや主人公の前から姿を消してしまう。まるで周回軌道上から人工衛星が姿を消してしまうように。

 

この恋はわたしをどこかに運び去ろうとしている。しかしその強い流れから身を引くことはもはやできそうにない。(中略)目の前にある流れのままに身をまかせるしかない。たとえわたしという人間がそこで炎に焼き尽くされ、失われてしまうとしても。  彼女の予感は──もちろん今になってそうとわかることなのだが──120パーセント正しかった。

 

同じ周回軌道上にいるとき、旅の道連れがどれほどかけがえのない存在であったか知るのは難しい。何かの拍子に周回軌道を外れてしまった場合、次のフライバイ(接近)があるとは限らない。ほんの小さなきっかけで、何かの拍子で、たとえ生きていたとしても再び会うことは出来なくなる。あの気の毒なライカ犬のように。