ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

引き伸ばす者への憎悪 キャッチャー・イン・ザ・ライ

ギリシャ神話のなかで、「引き伸ばす者」という意味のプロクルステスという強盗が登場するエピソードがある。プロクルステスは通りがかった人に「休ませてやろう」と言って鉄の寝台の上に乗せ、相手の体が寝台よりはみだしたらその部分を切断し、寝台の長さに足りなかったら逆に体を引き伸ばす拷問にかけて殺したという。

 

プロクルステスの寝台」とはそのエピソードから転じて「無理やり基準に一致させる」というような意味を持つようになった。よく考えてみれば、体を切られたり、引き伸ばされたり、ということはわれわれが社会生活を営むことで日常的に起こっているのではないか、とぼくは思う。本当は帰りたいのに仕事が終わらずに残業するのも、なければいいのに、と思う習慣を今でも続けているのもそうだ。きっと生きていくなかで体を切られたり引き伸ばされたりした経験のない者などいないのではないだろうか?

 

それが一番顕著なのは幼少期ではないかと思う。それまで親は欲求のすべてを速やかに満たしてくれた。だが、子供の欲求が複雑に細分化していくにつれ、親は子供の要求を満たすことが難しくなっていく。また、子供がいつか社会に出て困らないように社会のルールを教える必要もある。嘘をついてはいけない、挨拶しなくてはならない、公共の場所で騒いではならない。

 

初めて読む人は、ホールデンの独特な、攻撃的な語りにまず面食らうのではないだろうか。彼は大人の世界のすべてを憎んでいるように思える。彼の怒りの源は一体なんなのだろうか?
ぼくは、彼の怒りの源は「引き伸ばす者」への憎悪ではないかと感じた。
具体的に引用しながら見ていきたいと思う。

 

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 

 

 

 大人になるということはいったいどういうことなのだろうか。
ホールデンの目を通して描写される人間は、無条件で慈愛を注がれるべき子どもと、インチキな大人の二種類に分けられる。

 

大人の代表格は先生だろう。彼と教師との会話は以下のようになっている。

 

P24

そこで先生はそのみっともない答案を置いてこっちを見た。ピンポンの試合か何かでぼくをこてんぱんにのしてしまった後みたいな感じで。そんなクソみたいなものを僕の面前で声に出して読み上げたことで僕は先生を永遠に許さないだろう。もし彼がそんなもの書いたとしたら僕は本人の前で読み上げたりをしないと思うよ。全くの話。だいたい僕がそんなアホらしい一文を書いたのは僕を落第させることで先生に後ろめたい思いをしてもらいたくなかったって言う、それだけのためだったんだ。

 

教師は自分の思い通りに生徒を矯正しようとする、ある種の傲慢さを持っている。もちろん、矯正しなくてはならないのは、生徒が未熟だからだし、社会に出て困らないようにするためだ。しかし、そのやり方によっては生徒の尊厳を簡単に傷つけてしまうこともできる。


この文章には教師の傲慢さとホールデンの繊細さが現れているように思う。
ホールデンは本来感じやすくて繊細であるが、その繊細な心を守るために武装している。

 

大人と子ども、両者を別つものはいったいなんなのだろう?ホールデンは16、17歳であるが、彼自身は大人なのか、それとも子どもなのか?

 

P19で本人が以下のように語っている

年相応にふるまえなんてことばかり言われ続けているとときにはうんざりするよね。僕だって場合によっちゃ年齢よりもずっと大人びた行動とることもあるんだ。嘘じゃなくてさ 

 

この言葉の通り、ホールデンはびっくりするほど幼く無軌道な行動をとるかと思えば、大人な行動もとる。例えば、10ドルで娼婦を買ったかと思えば、次の日には尼さんに10ドルの寄付をする。

 

また、明らかにジェーンのことが好きなのに、彼女に電話をかけることはなんだかんだと理由をつけて後回しにしている。これは、ホールデンが彼女のことを本気で好きだからなのではないかと思う。だこらこそ彼女から拒絶されたり、彼女に失望したくないのだ。

 

ホールデンの言う、インチキな大人とは、利己的で偽善的な人間である。子どもにレッテルを貼り、実際にはその子どもがどういう美徳を持っているか見ることをしない。

たしかに、人間は大人になるにつれて「無意識」の領域が増えていく。子どもの頃に比べて大人になると時間の流れが早いというのは、いろんなものを記号化して無意識に立ち回ることを覚えるからだ。

 

たとえば、シャツのボタンをしめたりするのはもう無意識でできるけど、幼い子どもの場合はそうはいかない。世の中には気難しい人もいれば、気さくな人もいると知っている。ホールデンは無意識で他人を決めつける大人をインチキだと言って糾弾している。

しかし、この小説の面白いところは、主人公ホールデンが絶対なる子どもの支持者『ライ麦畑のキャッチャー』ではないということだ。彼自身が言っているように、彼は大人と子どもの間で揺れている。つまり、彼も彼自身の言う「インチキな大人」になりかかっている。

たとえば、アーネスト・モロウに対して、P97で以下のように言っている。

感じやすい、だってさ。僕はぶっとんだね。モロウのやつの感受性なんて便座並みのものなんだからさ。 

 

彼も他人にレッテルを張るインチキな大人としての一面を持っている。そうしなくては生きてはいけないからだ。彼は大人になることを拒否したいと思っているが、一方で、大人にならなくてはやり切れないことも数多く起きる。

 

特に、信頼していたアントリーニがもしかしたら自分を性的な目で見ていたかも知れない、と分かると、ホールデンは混乱する。アントリーニをただの変質者だとレッテルを貼れてしまえばどんなにか楽だろう。しかし、ホールデンは思う。ただ髪を撫でていただけだ、と。子どもの髪を撫でるのが好きなだけかもしれない。彼は現実を突きつけられるたびに引き裂かれてひどい気分になっていく。

 

いつかは現実と折り合いをつけなくてはならない。フィービーと残ることに決めたのもホールデンがその覚悟を決めたせいなのだろう。大人でも子どもでもなかった時代、今よりずっと時の流れが遅く、生きづらかった頃、そのときの息苦しさがこの小説からは伝わってくる。