ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

「存在」というものの不確かさ 納屋を焼く

10年以上前に読んだ短編で、使っていない納屋を焼く、なんとなく不気味な趣味を持つ男が出てくる短編小説だということは覚えていた。今回読み直して少し驚いた。かなり緊密な構成になっていたからだ。

 

村上春樹は基本的には技巧的というよりも職人的な、言わばインスピレーションの作家というイメージだった。例えば、ダンスダンスダンスでは、札幌のいるかホテルについた後、自分のインスピレーションが降りてくるまで主人公にカフェに行かせたり、思いつきで床屋に行かせたり、さて、今日は何しようか、とさまざまなことをさせていた。

でも、短編の場合には枚数の制限もあるのでそういうわけにもいかない。冒頭から意味のある話をしなくてはならない。

 

緊密な小説、ということは、無駄な文章がない小説、ということだ。不気味な趣味を持つ男の話、という男の印象だけが強く残る小説だが、実際には冒頭からこの話の方向性を決める会話がある。


パントマイムのくだりだ。主人公のガールフレンドはパントマイムの勉強をしていて、みかんむきを主人公に披露する。彼女の見事なパフォーマンスを主人公が褒めると、ガールフレンドは、コツがあるという。みかんがあると思いこむのではなく、そこにみかんがないことを忘れるのだ、と語る。つまり、冒頭で、「今から語られる物語は、なにかの「存在」に関する話なのだ」とここで提示されている。

では、なんの存在か?
それを読み解くヒントは主要人物の人間関係や職業などのバックグラウンドにあるように思う。

 

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

 

 

 

 主人公には妻がいるが、彼女はガールフレンドだ。彼女はまじめにモデルの仕事をしている様子はないが、何人かの男性からの経済的援助を受けている。そして、ガールフレンドにはつい最近きちんとした形のボーイフレンドができた。そのボーイフレンドはなんの仕事をしているのかいまいちはっきりせず、ただ羽振りが良いことだけはわかる。

カップルは主人公の家に来て白ワインと、ローストビーフサンドイッチ、スモークサーモンでちょっとしたパーティをする。見た感じ華やかだが、何かが足りない。

 

「ない」ことを忘れているものがある。

 

この小説の不気味さの正体は、存在というものの危うさを指摘していることではないだろうか?僕たちがあると思い込んでいるものは、実は、ないことを忘れているだけではないのか?たとえば、愛や、友情や、職業、倫理観。目には見えないこれらの価値観を、我々は守るべき重要な土台だと思っているが、実際にそれを「見る」ことは出来ず、だとすればそれを存在すると証明することも、「ない」と証明することも出来ない。

 

主人公と女は不倫関係にあるし、女はその他大勢のパトロンからの援助で生計を立てている。男の職業ははっきりせず、大麻を吸ったり納屋を焼いたりといった犯罪行為をしている。納屋を焼く、と宣言した彼はおそらく本当に主人公の家の近くの納屋を焼いたのであろうが、主人公は周囲の納屋をくまなくチェックしていたにも関わらず納屋が燃やされたことに気がつかない。なぜならその納屋が存在していることに気がついていなかったから。存在を見落とすほどの納屋を、彼が焼いた、という解釈ができる。

 

また、彼は酔って大麻を吸ったあと、モラルについての話をする。モラルとは、同時存在である。「ぼくが責め、ぼくが許す」。つまり、何か反社会的な、咎められるべき行動をしたとしても、同時に責める人がいなければその行為は許される。そういう風にも受け取れる。

彼のモラルに対する感覚はユニークかつ独善的だ。主人公はそれに対して少し極端だ、と指摘する。結局仮説の上に存在しているだけだ、と。しかし、議論を少しだけ進めれば、主人公に対してこう反論することも出来るだろう「なら、あなたの信じているモラルだって仮説の上に成り立っているとは言えませんか?」

 

この小説の不気味さは、われわれが当たり前に存在していると思っているものが、実は「存在している」と仮定しているに過ぎない、と指摘している点ではないだろうか?行動の規範になる土台が揺らいだとき、人は冷静ではいられない。

 

女はどうなったのか?

 

読書会では、ガールフレンドは男によって殺され、納屋の中で焼かれたのだ、と解釈している人がいて興味深かった。たしかに読み返してみると、ラストで彼女は連絡が取れなくなっているが、「彼女と連絡が取れない。おかしい」と騒いでいるのは、主人公ではなくむしろ男のほうだ。いくら男がクレイジーな殺人鬼だとしても、自分の殺した女がいなくなった、と周りに吹聴したりするだろうか?あれだけ注意深く行動する男が、しかも去り際に?

 

ぼくの解釈は、こうだ。男にとって納屋とは彼自身の「モラル」のメタファーであり、彼はそれを焼くことで「弱点」を克服していく。そう、彼にとってモラルとは弱点なのだ。彼は納屋を焼くことで敵に対する情けや、人間的な情緒というものを自分の中から排除していく。ちょうど「ノルウェイの森」の永沢がひたすら女と寝て自分を強化していくように。


ガールフレンドが居なくなったのは、そんな男の空虚なライフスタイルに、彼女がついて行くことが出来なくなったからではないだろうか?ある意味で、つまり比喩的な意味で、彼女は彼によって焼かれており、彼女はそれに耐えきれずに出て行った。しかし、男はそれに気がつかない。主人公が家の近くの納屋を燃やされても、気がつかなかったように、彼もガールフレンドの存在が近すぎて気がつかないのだ。


そう考えると、男は冷徹な殺人鬼という印象ではなくなる。彼もまた他の多くの人間と同じように「きちんとしたガールフレンド」を持ち、人生を分かち合いたいと思っているのにもかかわらず、自らの特異なライフスタイルのせいで周りを傷つけ、気がつかないうちに彼の元から去っていく。彼はおかしいな?というくらいには疑問に思うだろう。しかし、次の瞬間にはまた別の納屋を探す。ひたすらストイックに自分の世界を高めていく孤独な男という解釈もできる。

 

その後の村上春樹作品で登場する、ノルウェイの森の永沢、ダンスダンスダンスの五反田、騎士団長殺しの免色。村上春樹が憧れ、彼が目指した、ジェイ・ギャツビー的人物像の原型がこの納屋を焼くという短編小説に現れているといえるのではないだろうか?そう考えると、この短編は村上作品のマスターピースの一つだと言えるのかもしれない。