ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

男に生まれるのではない、男になるのだ 「たてがみを捨てたライオンたち」

1949年にフランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールが「第二の性」の中で言った。「女に生まれるのではない。女になるのだ」当時は終戦からまだ四年。男性が戦争で激減し、女性は自立して前を向かなくてはならない時代だった。当時の感覚は想像するしかないけれど、この言葉を男女逆にしても今の感覚ならそれほど違和感がないような気がする。

 

男に生まれるのではない。男になるのだ。

 

男性の生きづらさを扱う、一般的に男性学と呼ばれるこの分野の研究が発達してきたのは1980年ごろからだという。恐らく女性の参政権が認められ、男女雇用機会均等法が当たり前に受け入れられるようになってからで、いまからおよそ四十年くらい前の話だ。ぼくは1984年生まれの34歳なので、男性学の誕生とほぼ同時期に産まれたことになる。

 

ジェンダーの問題というものは、論じるのがとても難しい。特に世間一般では強い立場と言われる男性の生きづらさについて語るのには注意が必要だ。そうは言っても女性のほうが立場は弱い、と言われればそのとおりであるし、男性自身も自分の弱みを喜んでさらけ出そうという気持ちにはなかなかならない。それに、ぼくは男性であるので、語った瞬間に男性の側から男性を語る、とか男性の側から女性を語るという立場を取らざるを得ない。

 

つまり、公平性を保つことが難しい。それはぼく以外の誰が語っても同じだと思う。まず身近な人間から始めるか、よほど気をつけて科学的統計に基づいて論じないと、「主語が大きい」と言われかねない。

 

だから、まずは身近にいる男性について話そうと思う。
例えば、ぼくの父は絶対に「出来ない」とか「知らない」と言わない人だ。では、なんでも出来て、なんでも知っているスーパーマンのような人か、といえばそうでもない。当然人間だから出来ないことも知らないこともある。ただ、出来ない、知らないと言えないだけで、彼はそれを回避したがる。そのために付き合わされる方はけっこうイライラする。素直に出来ない、知らないと言えばすぐに終わったはずの話が、無駄に回りくどく長くなる。皆さんの周りにもそういう人はいないだろうか?そして、そういう人は男性?それとも女性だろうか?

 

たてがみを捨てたライオンたち (単行本)

たてがみを捨てたライオンたち (単行本)

 

 

 

 

 

それは男性が多いのではないだろうかと思う。では、それは何故だろう?
最近読んだドイツの心理学者アルフレッド・アドラー関連の本の中に、「機能価値」と「存在価値」という言葉が出てきた。「機能価値」とはお金を稼ぐことができる、とか、ルックスが優れている、とか、話しがうまい、とか役に立つ「機能」を強く評価する価値指標である。社会の中において「機能価値」は強く求められる。
リーダーシップを発揮し、コミュニケーション能力があり、語学や技術に詳しいというような人材を会社はつねに求めているし、その価値でしか人材を評価することができない。その一方で、これらが出来ない人は「存在価値」がないのだろうか?

 

男性の社会は「機能価値」が重視される世界のように思える。本書において、慎一にしても直樹にしても、同僚を描写するときに仕事が出来る、仕事が出来ない、ということを語るし、例えば慎一の父親は、稼いでいることが家事をしない免罪符だと考えているように見える。我々の親の世代にそういう考え方の人は多いのではないだろうか。

 

次に科学的見地から見てみたい。人類学者のロビン・ダンバーの本の中で、集団の中にオスが多いと情動を司る大脳辺縁系が発達し、メスが多いと、理性を司る大脳新皮質が発達すると書かれていた。クルマで例えれば男性の集団はアクセル、女性の集団はブレーキを司る器官が発達するようだ。その本の中では、外敵に襲われたとき、(やばい、死ぬかも……)とか、細かいことを考えずにとにかく敵と戦うことがオスには求められるとあったが、そう考えると分かりやすい。そして、アクセルが重視される集団の中で機能が重視されるのは理にかなっている。前に進める機能が何より評価される構造になりやすい。

 

男性は機能価値の尺度で語られることが多いのではないかと思う。子どものころは、足が速い、テストの成績がいい、ゲームがうまいとかの価値基準が一目置かれることになるし、大人になってからもそれは基本的には変わらない。
電車の中で暴漢が暴れていたニュースで、男はなにをしていたのか?と話題になった。女性の婚活で、どんなに女性が高給取りでも自分と同等かそれ以上の給与を相手に求める、という人が結構いるのだと聞く。

 

一方で、もちろん男性のほうも機能価値で女性を語る場合があるため問題は複雑になる。しかし、女性が暴漢を捕まえたり、高額な所得を取ってくるように要求されることはまずない。若かったり、見た目が美しかったり、料理や家事がうまかったり、男性を立ててくれる、という機能が一般的には求められる。女性がそれを聞いて、なんだかな、と思うように、男性も機能価値の尺度で自分を見られるとなんだかな、と思う。

 

初めの問いに戻る。では、機能的に劣っている人間は、存在価値がないのか? アルフレッド・アドラーは、全ての人間の存在価値は機能価値の優劣によって目減りしたりはしないとしている。なにかができないとしても、なにかを知らないとしてもあなたの存在価値は揺るがない。機能価値と存在価値は厳密に分離するべきなのだ。しかし、ぼくの父はそういう考え方を知らないのではないのかと思うし、他の多くの「社会人」もそのあたりを混同している人が多いのではないかと思う。

 

なにかを知らなかったり、何かが出来なかったりすると、自分の存在価値はないのではないかと思い悩む。人生のあるポイントまではそれでうまくいくかもしれない。彼らは自分の存在価値を守るために自分の機能を強化する。しかし、いつか必ず「できないこと」「知らないこと」に直面する。

 

我々人間の存在する価値は、何かができたり、なにかを知っていたりすることで高まったり、低くなったりはしない。全ての人間の存在価値は揺るぎない。全人類はそれを知るべきである。なぜなら、もしも足腰が衰えて狩りに出られなくなった時、その人間の存在価値はなくなるとしたらそんな世の中が、我々の目指すべき未来だと言えるだろうか? 男女の格差がなくなり、フラットになっていく時代、旧来の価値観が破綻してきた時代に、では新しい男女はどうあるべきか? と考えたとき、我々男性も、そして男性に限らず女性であっても、自分自身のたてがみを捨てる時が、すぐそこまで来ているのではないだろうか。

 

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