ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

無常への儚い抵抗 妊娠カレンダー

そのままを維持したい感情と何者もそのままではいられないという現実

 

小川洋子を読むのは博士の愛した数式に続いて2冊目である。だから、まだまだ彼女のライトモチーフを語るほどには読み込んではいないのだが、今回彼女の小説から感じたのは、変化への拒絶である。

 

ぼくが小説を読んでいて常に考えるのは、「この小説は読者をどこに連れて行ってくれるのだろうか?」ということだ。驚くような結末か、考えさせられるような機知に富んだ展開か、著者の人柄あふれる心情か? 博士の愛した数式は、表面は美しい表現にあふれているが、ぼくをどこへも連れて行ってはくれなかった。それでずいぶんがっかりした思い出がある。

 

謎は謎のままであり、展開に心を動かされるようなものはない。でも、今回妊娠カレンダーに連なる短編を読んではっとなった。そもそも、どこかにたどり着く必要などあるのか? というか、そもそも作者である小川洋子は「どこか」にたどり着きたいと思っているのか? と。

 

 

妊娠カレンダー (文春文庫)

妊娠カレンダー (文春文庫)

 

 

 


ドミトリィをめぐる3人の男

 

存在感の薄い夫(あるいは元夫)、守るべき子供、介助を必要とする老人。主人公の周囲にいる3人の男の構図は、博士の愛した数式にそっくりである。

 

ドミトリィでは、

いとこ
先生
三者となる。

 

博士の愛した数式では、
元夫
息子
博士
三者だろう。

 

彼女の夫はスウェーデンに単身赴任し、ゆくゆくは現地に彼女を呼び寄せようとしている。彼女はそんな彼からの手紙を無視し、パッチワークをして日々逃避している。そんな中、15年ぶりに再会した新大学生のいとこにかつて自分の住んでいた学生寮を紹介する。いとこの世話をかいがいしく焼くことでひととき生きがいを取り戻したように見えるが、いとこは大学に入ってから忙しく、会うことができない。そして彼女は学生寮で両手と片足がない「先生」と再会することになる。

 

夫が暗示するのは実務的なやらねばならないこと。換言すれば社会的な要請による義務。いとことは男女の色恋のようなもの。時折艶めかしくなるいとことの描写からはセックスへの示唆がある。両者は若く健康で、主人公を置いてどんどん前へ前へと決断していく。そして、そんなふたりとは対照的な存在として先生が描かれている。彼は去勢された異性としての役割を与えられているように思う。

 

健康な若い男はさまざまなことを要求してくる。妻であることを要求し、住居の場所を変えて自分と一緒に住むこと、実務的な役所書類を取得することを要求してくる。または恋人であることを要求し、身体を求めてくるかもしれない。しかし、3人目の男は何も求めない。彼は健康でなく、若くもない。

 

どこにも到達したくない。住む場所を変えたくなどない。男と女の関係に到達したくない。主人公から感じるのは変わることへの嫌悪感だ。その感情は「先生」からも感じられる。繋ぎ止めたい、という儚い思いが2人を呼びあったのかもしれない。ラストで明かされる不気味さも、結局無理に繋ぎ止めることなどできない、ということを暗示しているのだろうか。

 

意図のない姉妹 妊娠カレンダー

 

特にこの「変化への拒絶」が顕著に現れているのが表題作の妊娠カレンダーだ。そこでは、「どれほど変わりたくないと望んでいても否応なく変わらざるを得ない」という状況がさらに顕著に現れている。

 

人間であれば誰でも環境や年齢の変化によって少しずつ変わっていく。就学、就職、結婚、出産、育児、死別。人生のライフステージが変化すれば、当然人は変化する。とりわけ、変化が急峻なのは出産ではないだろうか?これは女性にしか経験することができない。

 

主人公と彼女の姉は、変わらない自分と変わっていく自分を表しているのではないだろうか。変わらない自分は、変わりたくない、と切望していながら、変わっていく自分を冷静に見つめている。そこに、頼りない夫が加わることで「変わっていく自分」をより客観的に見つめることができる。

 

姉妹の会話で奇妙だと思ったのは、会話の内容に意図がないことだ。例えば、
「グラタンのホワイトソースって内蔵の消化液みたいだって思わない?」P.22
なんてことを姉は言うのだが、そのセリフには意図がない。意図がないということは、そのセリフを通して相手に何かを求めているわけではない、ということだ。ただそう思ったからそう口にして、相手に共感を求める。いや、もしかしたら、共感すら求めていないのかもしれない。これは男性同士のコミュニケーションでは考えにくいことだ。もし男性がそういうセリフを男性に口にしたとしたら、そこには何かしらの意図があるはずだと思うはずだ。言われた男性は、何かを脅しているに違いない、と考え、内省するだろう。

 

妊娠カレンダーの中に出てくる夫は、意図を感じ取ろうとしており、それがこの小説に多角的な視点をもたらしている。姉が夜中に琵琶のシャーベットが食べたいとワガママを言うのに対して、夫はなんとかその要求に応えようとするが、妹の方は彼女の発言に意図がないことを見抜いているので動じない。「そんなのあるわけないでしょ」とぴしゃりとはねつける。そうしなければ「妊娠」は姉を傲慢なモンスターに変えてしまう。妹はそうした姉の変化を恐れているように見える。だからこそ姉を増長させるようにあたふたする夫のことを憎々しげに見る。実際に、姉は以下のように言って駄々をこねていた。

 

「琵琶じゃなきゃ意味がないわ。中略 しかも求めているのはわたし自身じゃないのよ。わたしの中の『妊娠』が求めているの。中略。だからどうにもできないの」

 

ドミトリィや博士の愛した数式よりも、ぼくはこの妊娠カレンダーのほうが好きだ。なぜなら、前者が変化を恐れているものたちが集まってただ恐れおののいているだけのように見えるのに対して、妊娠カレンダーは実際に変化せざるを得ない状況に身を置いているからだ。そして、夫という「他者」が彩りを添えることで多角的な視点がそこに差し込まれる。

 

人生は自分の都合のいいようには動かない。自分の都合のよい世界を構築し、実際よりも人生を楽なものに見せかけるような小説よりも、変化せざるを得ないという人生の厳しい側面に目を向けた小説の方がぼくは好みである。厳しいながらもそこに人間に対する愛情があれば、言うことはない。そういう小説こそが読みたい小説だ、と思った。