ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

世界は公正か? 「羅生門・蜘蛛の糸・杜子春その他短編」

文学と「地域性」「時代性」そして作家の「人間性」というものは切っても切り離せない関係にある。出展は失念してしまったが、村上春樹が登場したとき、「畳の匂い」がしない文学だ、と批評があった。デビュー作の「風の歌を聴け」では、なるほど、ジャズやビーチボーイズが流れ、中国人バーテンダーが経営するバーにフランス人水兵がいて、親友はイタリア車のフィアットに乗っている。
これをイチャモンだと切り捨てることもできるが、この批評の裏には「いやしくも日本語で書かれた小説を発表する日本人作家であるなら、日本人が共有する問題について論じるべきだ」という思いがあったのだと深読みすることもできる。(村上春樹は日本人に共通する問題について取り組んでいないのか?と言われると、そうは思わないのだけれど、長くなるので今回の文章では割愛する)

では、逆にどういう文学が「畳のにおい」のする文学か?と考えたとき、例えば芥川龍之介は確実に「畳の匂い」のする文学だろう。それはなにも、舞台が日本で、日本人が出てくる古典だから、という理由ではなく、扱っている題材がきわめて日本的であるからだ。(反対に、例えば遠藤周作「沈黙」のようにポルトガル人宣教師が主人公であっても日本的な「畳の匂い」のする文学は成立する)
古来より日本人の行動原理や行動規範にあたるものは、「公正世界仮説」に基づいているのではないかと思う。公正世界仮説とは、「世界は常に公正な裁きを下す存在であり、この世界に生きる人間は全員、最終的には悪いことをすれば罰を受け、正しいことをすれば報われる」という考え方だ。よく我々は「お天道様が見ている」とか、「世間に顔向けができない」「バチが当たった」「日頃の行いがいい」などと表現するが、これは「公正世界仮説」に基づく考え方と言える。

 

羅生門 蜘蛛の糸 杜子春外十八篇 (文春文庫―現代日本文学館)

羅生門 蜘蛛の糸 杜子春外十八篇 (文春文庫―現代日本文学館)

 

 

 

 

芥川龍之介の著作で言えば、代表作の「羅生門」「蜘蛛の糸」「杜子春」「地獄変」などはすべて公正世界仮説を念頭に描かれているように思う。正直に生きていればいいことがあり、悪人には裁きがある。しかし、注目したいのは、彼の作品がいわゆる「日本昔ばなし」のような、単純な勧善懲悪ではないことだ。「羅生門」は善に傾いていた男が老婆という悪人に出会い、最終的には悪に染まる話だし、「蜘蛛の糸」は悪人が結局自分のエゴイズムのために救いの糸を断ち切られてしまう話だ。また、「地獄変」に至っては、善良でなんの落ち度もない娘が、父親の絵師と彼のパトロンである殿様の確執のせいで焼き殺されてしまう。こうして例を挙げて見ると、芥川龍之介は、「公正世界仮説の破れ」を表現することに情熱を燃やしていた作家であり、彼が評価を受けている作品はいずれもそれを主題として書かれた作品である事がわかる。

なぜ芥川は公正世界仮説を意識した作品群を残し、それによって評価されたのか? それは彼の活躍した大正時代(1912〜1926)と関連があるように思う。
日清戦争(1894〜1895)、日露戦争(1904〜1905)の勝利で日本は急速に豊かになり、近代化が進んだ。「近代化が進んだ」ということは、単純に言えば少ない労力で大量の食料が確保できるようになったということだ。そして、その結果としてもたらされるものは急激な人口増加である。明治5年(1872)は3500万人だった日本の人口が、明治45年(大正元年)(1912)には5000万人を突破する。
人口が多くなり、人口密度が高くなったことと、「公正世界仮説」は密接な関わりがあるのではないかと思う。例えば、家を出てから知り合いに何人出会っただろう?例えばふらりと入った飲み屋に何人知り合いがいるだろうか?人口が少なければ、都市部であっても親戚や友人、顔見知りに会う可能性は高い。例えばパブリックな場所でいさかいが起こり、仲裁に入ったとき、当事者のAとBを両方とも知っているかもしれない。そうしたとき、Aは真面目に毎日働く勤勉な男だが、Bは日がな一日酒場でくだを巻いていると知っていたら、そのバックグラウンドに基づいた仲裁をするかもしれない。どうしてもそうしたバイアスがかかった状態ではAに有利な裁定が下されることになる。
そうした世界、つまり人口密度が低く、家を出てからも知り合いと出会う可能性の高い世界では、公正世界仮説は人間の行動指針として有効に働く。世間のために生きていたとしても、世間から見返りがあるのならその世界観に疑問を差し挟む余地はない。
しかし、芥川の生きた世界は、その絶対的な条件が崩れてきた世界なのではないか? これまで世間のために生きてきた人間は、世間のために生きてきたとしても、世間から正当な評価を下されない。運命は時として誰かの気まぐれとしか思えないような理不尽な思惑に翻弄されるのだと知る。だとすれば、次は何のために生きればいいのか? 当時の日本人全体が同じ問題に直面したからこそ、芥川の文学が重要な意味を持ったのではないだろうか? 「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残して芥川龍之介は自殺しているが、これは旧来の世間という公正な世界から切り離された不安感からくるのではないかと推察した。

最後に「河童」について、ひいては芥川龍之介自身について記述したい。「河童」は自叙伝ではないが、公正世界仮説ナショナリズム(例えばニーチェの超人思想)の間で揺れる芥川自身の考え方が、自叙伝らしき体裁を取る「歯車」「点鬼簿」よりもよほど色濃く現れているように思う。短編小説「河童」の世界は狭い。資本家も哲学者も詩人もみんな知り合いだ。だから彼らの世界は公正であり、改めて正義について真面目に考える必要がない。

 

「たとえば我々人間は正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹を抱えて笑い出すのです」河童 P325

 

「河童」の主人公は河童の世界に嫌気がさして人間の世界に戻ってきたが、その後はまた再び河童の世界に戻りたいとも思っている。この狂人の主人公とは、芥川自身の投影であると思われる。この小説の中で芥川は河童の世界の居心地の良さを、そして逆に不健全な歪さを、時に皮肉な視点で、時には憧憬の念で描く。

芥川龍之介は生後七ヶ月の時点で、家庭の事情で養子として外に出されている。肉親から十分な愛を受けられなかったという原体験は、彼の人格形成に大きな影響を与えているに違いない。「いい子」でいなければ捨てられてしまうかもしれない。その恐怖感が彼を駆り立てているのだとしたら? そう考えると、彼が公正世界仮説固執するのも頷けるような気がする。その出自と繊細さゆえに公正世界仮説の支配する旧来の世界と、否応無く変化し、近代化していく世界への折り合いがつかなかった。それが芥川龍之介という作家の人間性であり、ひいてはその人間性が彼の文学に色濃く影を落としているのではないかと思う。実は、公正世界仮説は様々な体裁をとりつつ(例えば欧米では宗教の形をとって)世界中で支持されている。優れた文学作品というものは、より大きな共同体の発展に寄与するものだ。そういう意味でも芥川龍之介の文学というものは文学史において重要な意味を持つのだろうと感じた。