ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

「自分」を巡る冒険 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

この小説の、長く謎めいたタイトルの意味するところとは一体なんであろう?色彩を持たない多崎つくるとは、すなわち「自分を持たない」ことを表しているのではないかと思う。身もふたもない言い方をするなら、この話における巡礼とは「自分探しの旅」だ。一時期、自分探しという言葉が流行って、その行為自体が何か薄っぺらい印象を与えるようになってしまった。インドに行ってガンジス川を見たり、ヨガや瞑想をしたり、「人生観が変わった」と言うだれかと同じ場所で同じことをすれば現状の冴えない状況が好転できると考える人が多かったから自分探しという言葉自体がなんだかそういう軽薄さを纏ってしまったのだろう。

ところで、「自分探し」と簡単に言うが、何があれば「自分」がある、と胸を張って言えるのだろう? ぼくの考えでは、それは内省のことではないかとおもう。すごく簡単に言ってしまえば、自分がなにに感動し、なにに怒り、なにに悲しみ、なにに喜びを感じるか? ということだ。ビールを片手に仲間とスポーツ観戦をすることが至福の時間だという人もいれば、家で難解な哲学書を読み、先人の知恵を知ることが無上の喜びだ、という人もいる。ただ、残念なことに、友達や恋人や家族に合わせてそれを楽しんでいるふりをしているという人もいる。心から自分が望んでいることなのか、そうでないのかは実は簡単には判別がつかない。

自分を知っていれば生きることが少しは楽になるだろう。目的のようなものもみつけることができるかもしれない。そして何よりも、目先の煩雑な事象にとらわれず、自分の感情に従って本当に欲しいものを手に入れる道を選ぶことができる。しかし、自分を知るためにはどうしたらいいのだろうか?

多崎つくるの陥った境遇は、内省のために必要な「自分探し」のヒントになりそうだ。

以下ネタバレを含みます。

 

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

 

 

 

 

どこかに自分のことを100%理解してくれ、無条件で認めてくれる、そしてなおかつ自分という存在を必要としてれるものがあるはずだ、という気持ちは、子供時代には誰もが抱くことではないだろうか。親との完璧に満たされた世界から切り離され、あるいは自ら出て行った後で、始めに夢見るのはそういう完璧に調和のとれた世界だろう。(マズローの欲求5段階説によれば、生理的欲求と安全欲求が満たされた後に求める「所属と愛の欲求」ということになる)
つくるはそれを手に入れるが、それはあくまで一時的なもので、終わりは突然訪れた。

これほど突然、しかも劇的に終わった関係は滅多にないだろうけれど、われわれも同じようにいつのまにか疎遠になった友達がいないだろうか? 進学や転勤、就職。あるいは結婚、出産、介護などのライフステージの変化とともに関心ごとは変化する。生涯にわたり、完璧に調和がとれ、100%自分を理解してくれる存在というものは、実のところ存在しない。しかし、この緊密な人間関係がまったく無駄だったかといえばそうでもない。皮肉なことに、他人と自分は違うのだという事実こそが自分をより知るための鍵になるからだ。

アカでもアオでもシロでもクロでも灰でも緑でもないというのが多崎つくるである。もちろん彼らとは似たところはあるし、ところどころで重なり合う部分はある。しかし、異なる人生を歩む異なる人格である以上、考え方に相違があるのは仕方のないことだし、その考えの相違こそが自分を知るための手がかりになる。

アカが、実際に大学に入り、銀行に就職をしたり、結婚生活を通して自分がそれに向いていないと知るのとよく似ている。実は「自分」というものは、何かと比較したり、体験を通してでないとうまく見えてこない。その結果、この人と自分は違うのだ、という現実に直面することで「自分」を知ることができる。

 

村上春樹という小説家の一番の関心ごとは、どの作品にあっても「自分」であり、ひいては「主人公の感情の動き」ではないかと思う。

ジョハリの窓」ということばがあって、その中で以下の四つの窓を定義している。

・「自分も他人も知っている自分」
(公開された窓)
・「自分は知っているけれど他人は知らない自分」
(秘密の窓)
・「自分は知らないけど他人は知っている自分」
(盲点の窓)
・「自分も他人も知らない自分」
(未知の窓)

つくるにはそれぞれ「公開された窓」「秘密の窓」「盲点の窓」それから「未知の窓」がある。

つくるはさまざまな人々と会うことで、これらの自分と対面することになる。「公開された窓」の内省的でクールな部分、「秘密の窓」で隠された欲望、「盲点の窓」で指摘される品良くハンサムで魅力的な部分。それから興味深いのは、自分も他人も知らない「未知の窓」の存在だ。

つくるは、自分が無意識のなかでシロをレイプし、絞殺してしまったのではないか? と考える。これは自分も他人も知らない自分「未知の窓」を表現しているのではないだろうか? このようなシチュエーションは、『海辺のカフカ』『1Q84』などほかの村上作品にもしばしば現れる。

 

自分なんて知らなくても生きていくのに不足はないけれど、自分を知ることで見えてくるものもある。何が本当に欲しいものなのか、その優先順位がわかれば、それを目印にすることができる。

だからこそ、最後にクロはつくるに言ったのではないだろうか? 「何があっても沙羅を手放すな」、と。沙羅とつくるは結ばれるか否か? 本書でははっきりした結末を書いていないけれど、この小説がそれを残して終わったのは、つくるの心の動きがこの作品のメインテーマだからではないだろうかと思う。つくるがもし沙羅から拒絶されたとしても、あるいは受け入れられたとしても、とにかく沙羅を受け入れるとつくるが決めたこと、それこそがこの小説にとって重要なのだ。
つまり、結ばれるか結ばれないかは重要ではなく、本当に欲しいものがなんなのか分からない、「色彩をもたない」男が、真に欲しいものを得たことが重要なのだと、ぼくは考える。
長い「巡礼」の後で、「色彩を持たない多崎つくる」は「自分」という色彩を手に入れたのだろう。