ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

流れの滞留する場所 「レキシントンの幽霊」

この短編集の全体的なイメージは「滞留」だ。

まずは、レキシントンという街について考察してみたいと思う。
レキシントンの幽霊」の舞台になったレキシントンケンタッキー州にある人口26万のレキシントンではなく、マサチューセッツ州ボストン郊外にある人口約3万人のレキシントンだ。大都市ボストンへのアクセスは車でおよそ30分ほど。住みやすい瀟洒ベッドタウン、と言ったイメージではないかと思う。
レキシントンアメリカの中でもあまり有名な街ではない。だからといってこの短編の題名を「ボストンの幽霊」にしてしまうとかなり作品としての趣きが変わってくる。「レキシントンの幽霊」という表題で伝わってくるのは静かな郊外のイメージだ。

村上春樹がどこかしら舞台設定として街を想定するとき、その街が流動的か、それとも滞留しているか、という点を念頭においているように思う。彼の生まれ育った芦屋市は神戸市の郊外にある高級住宅街であり、今彼は神奈川に居を構えていると聞く。ボストンと、神戸、それから神奈川の共通点は、港が近いことだ。人の流れは流動的で、新しい文化は海を超えて来るし、人の入れ替わりも激しい。では、郊外はどうだろう?そこはまるで台風の目のように静かで流れの滞留した場所なのかもしれない。神戸市と芦屋市、それにボストンとレキシントンという関係性が彼にこの作品を書かせた要因かもしれない。

 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 

 

 

レキシントンの幽霊」は筋立てだけ見るとかなり不可解で難解なイメージだが、登場する人物を考えると「滞留」というイメージがぴったりくるように思う。ケイシーは品がよく金持ちで、レキシントンに豪邸を構え、ピアノ調律師の男性ジェレミーと二人暮らしだ。彼らは明言こそされていないが、恐らくホモセクシャルな関係にあるのではないかと思う。彼らは沢山の人々と日常的に会ったりしないし、日々の生活の雑事に汲々としている感じもない。彼らの間に子供ができることはない。生物学的にもそうだし、養子を取るつもりもなさそうだ。つまり二人は完結しており、流れというものはない。

そしてこの小説には「幽霊」が出てくる。村上春樹は生命を一つの流れとして見ているのではないかと思う。生命は循環し、流れていく。川が海に流れ込むように、海の水が雨になって大地に降り注ぐように。人は子をなし、老いて死ぬが、自分の子供がさらに子供を産み、それが生命の流れになる。

しかし、レキシントンのケイシーの屋敷は地理的にも人物的にも流れの滞留する場所のように感じる。このように人生の「滞留」の期間は今後死ぬまで続くかに思えたが、ケイシーの「滞留」はジェレミーの母親が亡くなったことで突如として終わりを告げた。

ここでこの短編集のなかに含まれるほかの話についても言及したい。
「緑色の獣」もまた、滞留している女性の話だ。彼女はどこにも行かず、だからこそその鬱屈で緑色の獣にひどいふるまいをする。「沈黙」は学校という滞留した場所を舞台にしている。「氷男」には過去も未来もない。他人の過去が閉じ込められており、彼はそれを見ることができる。「トニー滝谷」は妻の死によって滞留していた一時のことを描いた物語である。「七番目の男」は台風の目を舞台にしている。「めくらやなぎと、眠る女」の主人公にとって実家は滞留する場所のようだ。

転がる石に苔は生えぬ、という言葉があるが、人が自分の人生を考えるのは人生がどんどん前に進んでいるときではなく、むしろ流れが滞留しているときではないだろうか?そこでなにを見るか?なにを思うか?それが再び人生が動き出したとき、あるいは再び人生に嵐が到来したとき、その嵐をどう生きるかという糧になる。ガンジーが言うように、「高い壁を乗り越えたとき、それはあなたを守る壁になる」のだ。この短編集から感じ取れるのはそういう種類の深い内省だ。