ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

信頼できない語り手が作り出す三つの世界「日の名残り」

カズオイシグロの大ファンで、著作はほぼ全て読んでいるのだが、その中でもひときわ秀逸だと思うのはやはり「日の名残り」だ。

品格の問題、叶わなかった恋の問題、イギリスの旅情、とにかくいろいろな側面で話す内容の多い作品ではあるが、今回はこの小説で用いられている技巧について話したい。

以前にもこの本でエントリーは書いているけれど、再読した印象の備忘録として残そうと思う。

 

カズオイシグロの使う小説上の技巧といえば、「信頼できない語り手」のテクニックが欠かせない。「信頼できない語り手」の特徴とは、読んで字の如く時折語り手であるスティーブンスが「事実ではないこと」をほのめかす、というところにある。読み手はそれによって混乱し、ひっかかりを覚える。なぜ、スティーブンスは事実ではないことをほのめかし、我々を混乱させるのか?そしてそれがこの物語を動かす上での大きな推進力になっている。

 

 

 

 


この本が秀逸なのは、「信頼できない語り手」のテクニックが極めて効果的にドラマを生み出しているからではないかと思う。カズオ・イシグロはデビュー以後、すべての作品で「信頼できない語り手」のテクニックを使い、その技術を洗練させていっている。

通常「信頼できない語り手」は虚構と現実の2つの世界しか生むことがないが、この作品では、実に3つの世界が生み出されているとぼくは認識している。

一つは、「スティーブンスが読者に思わせたがっている世界」、二つ目は「スティーブンスが実際はこうであったかもしれないと恐れている世界」、そして三つ目は「真実の世界」だ。しかもそれが現実の我々の世界ともリンクしている。そのことについて話そうと思う。

この小説の「技巧」を読み解くにあたって重要なキーパーソンはスティーブンスの元雇い主であるダーリントン卿ではないかと思う。彼をどういう人物とみなすかが、この小説の重要なサイドストーリーになっている。

まずは、スティーブンスが思わせたがっている世界から。それはダーリントン卿がヨーロッパにおける国際政治で重要な役割を果たした偉大な人物であるということだ。スティーブンスは働き盛りの30年を執事として彼に仕えることができて幸せだった、と読者に印象付けようとしている。

しかし、それにしては奇妙なことがある。旅の途中で出会った人や、ファラディ氏の友人に、あたかもダーリントン卿とは面識がない、という印象を与えるような発言をするのである。

ここで我々は、2つ目の世界の存在を知る。
「スティーブンスが実際にはこうであったかもしれないと恐れている世界」の存在だ。

ティーブンスがダーリントンホールに仕えていた間、第一次世界対戦の終結ベルサイユ条約の締結、ナチスドイツの台頭、ラインラント進駐、そして第二次世界大戦勃発という歴史上重要なできごとが起きる。

ダーリントン卿は物語の中で時折示唆されるように、ベルサイユ条約締結後は親ドイツ派で、ナチスドイツ台頭後はナチスドイツの考え方に染まってしまっている。ユダヤ人の従業員を解雇したり、英国の首相とドイツの外交官をダーリントンホールで引き合わせたり、レジナルド・カーディナルの言葉を借りれば「ナチスプロパガンダ専用の傀儡(遠隔の操り人形)」である、と示唆される。

戦時中、反ナチスの機運が高まってくると、ダーリントンは新聞社から糾弾され、戦後連合国軍が勝って戦争が終結したあとで彼は新聞社を相手取って名誉毀損で裁判を起こすが敗訴。失意のどん底で自殺する、という暗いストーリーが展開している。

したがってスティーブンスは、世間的に見ると「間違った主君に仕えたせいで人生を無駄にした哀れな男」であり、自分でも実際にそうなのではないか、と恐れているというわけだ。

並の小説ならこれでおそらく終わってしまうと思うが、この小説の見事な点は、この2つの世界だけにとどまらない、3つ目の世界が用意されていることだ。それは「真実の世界」である。

時折スティーブンスは、(おそらく攻撃される危険性がないと判断した場合に限り)ダーリントンの名前を出すが、読者である我々は、そのときの人々のリアクションが、本人が恐れているほどには大きくないことに気がつくのではないだろうか。

実際のダーリントンはスティーブンスが考えているような偉大な人物でもなければ極悪人でもないように示唆されている。言ってみれば、欧州人なら誰もが知っている英雄ウィンストン・チャーチルでもなければ、極悪人のアドルフ・ヒトラーでもない。

ただ、ダーリントンをただの愚かな人間、と切り捨ててしまうのはあまりにも寂しい。カズオ・イシグロダーリントンという一人の男を実に魅力的に描いている。

彼は第一次世界対戦で敗戦国であるドイツが不平等な条約を結ばされたことに対して、自身の友人であり、自殺してしまったドイツ人のヘル・ブレマンとの友情から憤るシーンがある。近年の研究で、第二次世界大戦の直接の原因は第一次世界大戦で調印されたドイツにとって圧倒的に不利な講和条約であるベルサイユ条約ではないかとも言われている。

また、権謀術数を旨とするアメリカ人ルイースにアマチュアだと指摘されたダーリントンは、「あなたがアマチュアリズムと軽蔑的に呼ばれたものを、ここにいるわれわれの大半はいまだに名誉と呼んで尊んでおります」と返すシーンがある。後の歴史を知っている我々は、ダーリントンの犯す過ちを知っているので、ルイースの言う、「ダーリントンは政治家としてはアマチュアだ」という意見を否定するのは難しいのだが、同時にダーリントンの言う名誉にも強く惹かれる。

このように、我々から見てもダーリントンは高潔なイギリス紳士であり、彼が過ちを犯したとしても、それはその時はダーリントン自身の良心にしたがって自らの信じる道を進んだだけのことだとわかる。実際ダーリントンユダヤ人を解雇したのは不当だった、と後悔するような言葉をスティーブンスに残している。

ここでヘル・ブレマンについてダーリントンが述べた言葉を引用したい。

 

「紳士としてやるべきことをやっている相手に、私は悪意はもたない。(中略)戦いが終わったら、もう敵ではない──私はそう言ったのだ。どうやら違ったようだ、などと、いまさらどの面下げて彼に言える?」

 

 

この小説の中でたびたび「品格」とは一体なんなのか?という議論が展開されるが、結局その答えは出ない。しかし、数々の「品格のない行動」は出てくる。アメリカ人のルイースが取ったロビー活動や、ダーリントンが指摘したこうした行為がそれにあたる。「品格」のある人物とはもしかしたらこうした行動を忌避する人物なのかもしれない。

3つ目の真実の世界とは、その当時に生きる人間として精一杯やるべきことをやりきった人間としてのダーリントンだ。それがたとえ過ちだったとしても、本物の紳士であるならば彼に悪意を持つべきではない。

この繊細で美しい世界観は、そのままミス・ケントンや、主人公であるスティーブンスにも適応することができる。彼らはそのときどきで自分が信じた道を進んだにすぎない。たとえそれが間違った道だとしても、誰にもそれを責める権利などないのだ。そしてそれはスティーブンス自身にも言える。自分で自分を責める必要も権利もない。この小説にはそうした繊細で美しい味がある。

第二次世界大戦は一瞬のうちに世界を塗り替えてしまった。ナチスドイツを擁護するわけではないが、連合国側が何も過ちを侵さなかったか、といえばそこには疑問符がつく。言わば死体に鞭を打つような態度は紳士としてあるまじき行為であり、品格がない。カズオ・イシグロは小説の中にこのようなメッセージを紛れ込ませているのではないだろうか。

余談ではあるが、似た世界観を戦前の日本と戦後の日本は抱えている。カズオ・イシグロは、この小説を書く前に、同じプロットで「浮世の画家」という小説を書いているので、「日の名残り」の世界観が気に入った人は読んでみるのもいいかもしれない。