ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

「ベニスに死す」は美少年ではなくおじさんを愛でる映画?

タージオ役のビョルン・アンドレセンの美しさをフィーチャーした作品かと思いきや、タージオが出てくるのは(あくまで体感で)全体の2割程度。じゃぁ残りの8割は何を映しているのか、といえば、主人公のおじさん(アッシェンバッハ(ダーク・ボガード))の顔である。そう、この映画は美少年を目当てに見にきた視聴者に対して終始おじさんがやきもきしている姿をたっぷり2時間見せつける変わった映画なのである。

はじめのうちは知らないおじさんの顔なんか見たってちっとも楽しくない。実際彼はわざわざドイツのミュンヘンからイタリアのヴェネツィアまで来てずーっと苦虫を噛み潰したような顔をしている。ヴェネツィアと言えばイタリア屈指の観光地で、そんなところに遊びに来たならふつうは大はしゃぎのはずだ。しかし、バカンスに来たわりに彼は陰気で浮かない顔をしている。

実に30分近くおじさんが船頭にボラれそうになったりヴェネツィアの暑さに文句を言ったりして、それからようやく美しいタージオが現れる。そのころにはもうこっちはおじさんの顔を見飽きているので、もうおじさんの顔なんかいいからさっさと美少年を映せ、と思ってしまうのだが、不思議なことにだんだん美少年よりもおじさんが一喜一憂する絵面が面白くなってくる。特にタージオと絡むわけでもなく、遠くの方でモジモジしているか、あるいは思い出を回想しているだけなのに。

 

ベニスに死す (字幕版)

ベニスに死す (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

それは一つにはタージオのパーソナリティがよくわからないせいもある。セリフらしいセリフもなく、人となりがわかるようなエピソードもない。彼はなにやらカッコいいポーズをしながらたまに流し目でこっちをみてくるだけの存在だ。海でよく分からない仲間たちと泥だらけになるまではしゃいだり、裸で取っ組み合いのじゃれあいをして、突然打ちどころが悪かったのか機嫌がわるくなったり、拾った貝殻をお母さんにあげたり、「天真爛漫」を通り越してもう「芝犬」みたいなやつである。つまり薄っぺらくて中身がない。

それに引き換えおじさんは中身がぎっちり詰まっている。さらに詰まっている中身がこじれまくっていてよくわからないことになっている。回想シーンに登場するおじさんの友達のべつのおじさん、アルフレッドもまた完全にこじれたおじさんだ。主人公のおじさんは「美」は秩序の元に作り出されるものだと主張しているが、アルフレッドは「美」は自然が作るものである、と言っていて、その主張は真っ向から対立する。(というか、顔を合わせるたびにそんな調子で大喧嘩を繰り広げるので、どうしてこいつら友達なんだろうと思わないでもない)

言い換えれば、おじさんが言うのは「作為的な美」アルフレッドの言うのは「無作為の美」である。彼らの「美」についての議論は聞けば聞くほど、「なるほど、よくわからん」という感じである。ただ、この映画を読み解く上で、彼らが議論の俎上に載せている「作為的な美」と「無作為の美」の対比は重要な役割を果たしているのではないかと思う。

例えば、タージオは女の子のように美しい少年であるが、ヘテロセクシャルなぼくのような無粋者は、「この役は別に美しい女の子でよくないか?」などと一瞬思ってしまいそうになる。しかし、もちろんそれだとこの話は成立しない。

芸術家は他の模範であらねばならない、と自分で言っていたくせに、当時はご法度の同性愛、しかも未成年者へのこじれた愛情ということでおじさんはそのインモラルな自分の感情を自分で認めるまでにもたっぷり苦悩するわけである。

この映画は筋だけ追えば作為的な美を作り出すために人生を捧げてきた作曲家のアッシェンバッハが無作為の美を持つ少年タージオに身も心も捧げ、破滅へと向かう話となる。つまりが早い話、知性が無垢に敗北する話である。

何が作為的で、何が無作為か?そういう視点で見てみると、ヴェネツィアという街自体が極めて作為的な街だということに気がつく。レストランを巡業する演奏者たち、観光客向けの船頭に、ビーチで椅子やらパラソルやらを貸し出す人たち。冒頭でおじさんがうんざりしていたのはそういうヴェネツィアの作為的な部分に気がついていたからなのかもしれない。そこに無作為の象徴であるかのような美少年と、それから伝染病が襲う。

換言すれば、作為的な街「ベニス」で作為的な芸術を志向してきた「アッシェンバッハ」が無作為の象徴である「タージオ」、そして「死」と遭遇するのである。

しかし、この映画が面白いのは、筋を詳しく追うとどこからが作為的で、どこからが無作為なのか曖昧になっていく点だ。

例えばコレラによる死は全てが無作為ではない。ヴェネツィアの人々は蔓延を知りつつもその存在を隠蔽していたのでこれは人災でもある。それにアッシェンバッハはヴェネツィアで死んだが、これも完全に無作為とは言い切れない。コレラの蔓延に気がつきつつ、タージオと別れることが辛くて街から出て行かなかったアッシェンバッハは死を自ら選択したとも言える。
(映画だとちょっと曖昧な描写だけど、タージオの家族に警告したのはおじさんの妄想であり、実際には警告はされなかった、とぼくは解釈した)

また、タージオの美しさにも作為が強く感じられる。彼は女ばかりの家族の中にいる唯一の男だが、登場シーンで他の家族が全員黒っぽいがデザインの凝った服を着ているのにたいし、彼は白っぽいシンプルな服を着ている。それまでヴェネツィアの作為的な美にうんざりしていたおじさんが唯一見つけた無作為の純粋無垢な美の象徴が彼なのだ。ところが皮肉なことに、タージオというキャラクター自体が、無作為の美に見えるよう作為的にガチガチに作り込まれている。

作為か無作為か、平凡なぼくのような人間には美しければどっちでもいいのでは?と思わないこともないが、芸術に人生を捧げているおじさんにとっては一大事なのである。この作品の面白さというのは、やはりおじさんの内面世界にあるのではないかと思う。彼はこじらせたおじさんだが、本気で美しいものを作り出そうとして苦悩し、本気で美しいものを愛しぬこうとしたその真摯な姿に我々は感銘を受けるのかもしれない。というわけで、やはりこの映画は美少年というよりもおじさんを愛でるための映画であるのだと思うのだ。

(余談ではあるが、特に日本文学はそういう作品が多いかもしれない。川端も芥川も太宰も大江も村上もみんなそうだ!というのはちょっと乱暴かもしれないけど)