ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

村上春樹は何がすごいのか?「東京奇譚集」


気がついたらこのブログも、もう100個目のエントリーである。だからというわけでもないけど、「東京奇譚集」を読み返す機会もあったことだし、「村上春樹は何がすごいのか?」あるいは、「どうして村上春樹は世界中で読まれているのか?」について書きたいと思う。長いエントリーになったけどお付き合いいただけると有り難い。

 

「モダンアートはなぜこんなにひどいのか」という動画が翻訳されていてネットで話題になっていたので読んでみた。

togetter.com

1000年前にミケランジェロダビデ像を石から削り出したが、現代でロサンゼルスの美術館は340トンのただの石をアート作品として展示した。これを見てその動画の製作者ロバート・フローザックは「1000年の間にアートはどうしてこれほど稚拙になってしまったのか?」と問題意識を持った、というものだった。

 

最後まで読んでみるとモダンアートと文学の流れはよく似ているな、と感じたので、その話題と一緒に村上春樹東京奇譚集を絡めて書こうと思う。

 

 

東京奇譚集 (新潮文庫)

東京奇譚集 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

印象派が登場してから、絵画は写実的なものから鑑賞者の印象を重要視するようになった。つまり「美しさは観る人によって決まる」という価値観だ。これにより、写実的で精密な絵から、より抽象的な絵が好まれるようになった。たぶん、これは写真の発明と普及に関係があるとおもう。ぱっと見て緻密で美しく正確な絵が欲しいなら、カメラで撮影すれば絵を描くよりもはるかに簡単に手に入る。絵画が写真を超える、あるいは写真とは別の価値を実現するためにはどうすればいいのか考えた結果生まれたのが今の流れだと思う。

 

小説においても、特に純文学の分野では、「何が起こったか」という客観的なストーリーよりも読み手がどう感じるか、という主観的な印象が重要視される流れがあると思う。「美しさは見る人が決める」というものだ。

 

絵画にとって「カメラ」が方向転換のきっかけになったが、小説にとっては「映画」が方向転換のきっかけになったのではないか? 何かが起きて、その結果どうなるか、というのは映画のほうがはるかに手っ取り早くわかりやすい。しかし、文学が映画を超える、あるいは映画とは別の価値を鑑賞者に提供するためにはどうすればいいのか?

 

「モダンアートはなぜこんなにひどいのか」の記事に戻る。動画製作者ロバート・フローザックも、現代アートの流れをくむアーティストの全てがひどいとは言っていない。例えば印象派の初期の画家、ルノワール、モネ、ドガあたりのアーティストは素晴らしい技術を持っていると評価している。では、どういうアートが「ひどい」アートで、どういうアートが「卓越」したアートなのか?


フローザックいわく、作品が「客観的に追跡可能であるか?」どうかが判断の基準になるのだそうだ。文学においても「客観的に追跡可能であるか?」というのは重要なポイントになっていて、結論から言えば、文学の場合はその小説の「構造」こそが傑作と駄作を分かつ鍵になるだろうとぼくは考えている。

 

好きな小説家の作品は全部読んでみることにしている。そうしてみると、その小説家が繰り返し使う主題があることに気がつく。初めからその主題が明確な人もいれば、二作目か三作目くらいから明確になる人もいる。例えばカズオイシグロは「時は戻らない」であるし(明確になったのは「浮世の画家」からだ)、今村夏子は「自我の境界線の消失」であるように思う。(デビュー作の「こちらあみ子」からすでに明確だったと思う)ただし、個人的にそう名付けているだけなのでそれを言っているのもぼくだけかもしれない。

 

さて、村上春樹の場合、最初期の「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」ではあまり感じられないものの、「羊をめぐる冒険」あたりから顕著になってくるのが「喪失とその回復への試み」ではないかと思う。(羊をめぐる冒険は、村上春樹が専業作家になった最初の作品であり、村上龍「コインロッカーベイビーズ」を読んで衝撃を受けた村上春樹が、「モンタージュよりもストーリーテリングの見地から物語に勢いと強い完全性を与えたい、と思うようになった」と全集の中に本人による記載がある出世作となった「ノルウェイの森」でも主人公は親友のキズキを喪失しているし、「ねじまき鳥クロニクル」では突然妻が失踪する。

 

東京奇譚集」という短編集は全てこの「喪失とその回復への試み」が主題となっており、つまり、誰かがなにかを失くして、その結果とった行動が小説になっている。その意味で、極めて純度の高い村上作品と言えるだろう。ざっとその構成を要約すると以下のようになる。

 

「偶然の旅人」

偶然会った女と姉が乳がんによって乳房を失う。

 

「ハナレイベイ」

主人公が息子を失ったあと、毎年ハワイに行くようになる


「どこであれそれが見つかりそうな場所で」

依頼人の女は夫が失踪したため、探偵である主人公に調査を依頼

 

「移動する腎臓のかたちをした石」

主人公が「本当に意味のある女の子」を失う


品川猿

主人公は名前を失って、また取り戻す

 

以上の5つの話だ。

 

大抵の失ったものは戻ってこないし、たとえ戻ってきたとしても失う前と後で変わっている、というのが村上春樹作品のなかで繰り返し語られている。それと、もうひとつ特筆すべきだと感じたのは、村上作品がドラマチックであろうとしないことだ。

 

ハナレイベイの場合、母親である主人公が息子を亡くす話でありながら、実は息子と心を通わせることができていなかったし、品川猿では、主人公は母や姉から愛されていないという自覚があった。例えば、もしもハナレイベイをドラマチックな話にするなら、主人公がいかに息子を愛していたかを書くべきだろう。しかし、村上春樹はあえて逆に「実際はそんなに心が通い合っていなかった」と書いている。それはなぜなのか?どうして喪失感を主題に起きつつ、いかにこの喪失がきついものか、ということを主張せず、逆に喪失したものがそれほど大した痛手ではないとあえて主張するのだろう?

 

それは、殊更に自分の悲しみを主張することがリアルでない、と考えているからではないだろうか。もしも喪失したものがその人にとって大きなものだとしたら、心は痛手を負う。場合によっては立ち直れないかもしれない。だからそのショックを和らげるために、自分の失くしたものはそれほど大したものじゃないのだ、と思い込もうとする。そして何とか失ったものを受け入れ、その穴を何かで埋めようとする。それから感覚を研ぎ澄まして、その後自分に起こる何かが意味を持つものだと考えるようになる。そちらのほうがよほどリアルで真に迫っている。

 

始めの問いに戻る。どういう作品が卓越していて、どういう作品がひどい作品なのか?それは客観的に追跡可能であるかどうかだ。「喪失とその回復への試み」というテーマで小説を書くならば、血の通ったリアルな人間が辿るプロセスを小説のなかで追体験できなくてはならない。喪失があってショックを受け、その喪失などそれほど大したことはないのだ、と自分を騙し、喪失を受け入れ、なんとかそこから教訓を得ようとする。この一連の流れこそが「客観的に追跡可能」な構造ではないだろうか。

 

文学が映画に勝る点はここにある。「実際には経験していないことを思い出す」ということに、実は映画よりも文学のほうが向いている。人間の記憶はカメラのように正確でも緻密でもない。むしろ、いい加減で頼りなく、時には自己欺瞞や記憶違いをする。

 

村上春樹はおそらくこうした構造を意識的に自分の小説に取り入れて「喪失とその回復への試み」を客観的に追跡できるようにしている。そこには地域や時代、年代を超えた普遍性があり、だからこそ世界中で多くの人に読まれるのである。その点において村上春樹は、ほかの作家とは一線を画しているのではないかと思う。