ほんだなぶろぐ

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死に至る渇き 『人間失格 太宰治と三人の女たち』

監督 蜷川実花、主演 小栗旬の映画「人間失格 太宰治と三人の女たち」を観てきた。

太宰治とは一体どういう人間だったのだろう? 女たらしで無責任。金勘定が苦手で、酒や薬に溺れ、最期は愛人と入水自殺した戦後の文豪。これがぼくの印象だった。しかし、この映画が描き出した太宰治像はいったいどうなのだろうか?ただそれだけの男だったか?

この映画は人間の心からの渇望、つまり「渇き」をめぐる話だ。天才とは言い換えれば、自らの「渇き」を見つめ、我々にわかる形で遺すことができた人間なのではないだろうか。そしてその作業は時として尋常ならざる痛みを伴う。「自らの身体をメスで裂き、臓物を引きずり出して白日のもとにさらすことだ」と劇中で藤原竜也演じる坂口安吾はその痛みを表現した。

「渇き」が大きければ大きいほどより強烈な作品を遺すことができる。凡人と天才とをわかつ資質とはつまりこの「渇き」の総量の差ではないかと思う。この映画は太宰治という作家の「渇き」を巡る物語であり、また同時に彼を取り巻く女たち、そして男たちの「渇き」の物語である。太宰の「渇き」は巨大すぎるがゆえに彼自身を死に至らしめた。彼の「渇き」の正体とは一体なんだったのだろうか?

 


映画『人間失格』予告

 

 


映画「人間失格」は、太宰治の小説作品「人間失格」を映画化したというよりも、むしろ太宰治の伝記映画的な側面が強い。21歳の太宰治が起こした鎌倉の海岸での心中未遂事件から「斜陽」の発表、「人間失格」の発表を経て38歳で玉川上水で入水自殺するまでが描かれている。史実によれば4回の自殺未遂を経て5度目で完遂したことになる。何が彼を死に駆り立てたのだろうか?それを考察していきたいと思う。

太宰治と三人の女たち

副題のとおり、この映画には太宰治に多大な影響を与えた三人の女が出てくる。

まずは、本妻の美知子。
太宰は作家井伏鱒二の紹介で石原美知子と見合い、結婚する。彼女は太宰の子を三人産み、妻として母親として家庭を守る。太宰治の「ヴィヨンの妻」は彼女をモデルにして書かれた話だと言われている。

そして、小説家志望の太田静子。
良家の娘でありながら破滅願望の強い彼女は、妻子ある太宰の子を所望する。伊豆に来ることを条件に、自分の日記を太宰に見せる。太宰は彼女の日記をもとに「斜陽」という作品を書き上げ、この作品は社会現象になるほどの大ヒットとなる。一方で伊豆で受胎した静子は太宰の娘を産む。

最後に、太宰の最後の恋人となった山崎富栄。史実では美容師ということだったが、映画ではその描写はない。太宰の最晩年、体調を崩した彼の看護をし、玉川上水で太宰とともに入水自殺し、太宰の最後の女となる。

妻子を持ち、「斜陽」のような社会現象を起こすほどの小説を書き、愛人を二人も抱えながらなお太宰の「渇き」は満たされなかったのはなぜなのか?

「俺はまだ一度も妻から作品を褒められたことがない」と劇中で太宰は言った。「あなたはもっとすごいものが書けるはず」というのが美知子の口癖だ。ここにこの夫婦のすれ違いが凝縮されているように感じた。

太宰は酔って帰宅した際、わざと大きな音を立てて「虫がでた」などと言いながら寝入っている妻を起こす。それに対して美知子はかいがいしく彼の世話を焼く。しかし、後半、彼が体調を崩したあと、太宰は同じように騒ぎ美知子が世話を焼くが、彼が吐血してその騒ぎで娘が床から起きる。すると美知子は苦しむ太宰には構わず、娘を抱きしめて太宰の姿をみせまいとする。

太宰は美知子に心の拠り所であることを求めたのかもしれない。しかし美知子が求めたのは太宰の「文豪」としての仕事だ。彼女はよき妻として、夫がいい仕事をすること、そして家庭を守ることを自身の役割として課した。これは彼女の「渇き」なのではないだろうか。一見良妻のようでいて、彼女には彼女なりの「渇き」があるのだ、とぼくは見た。

二人の愛人にしても、彼女たちは彼女たちだけの「渇き」を持っている。たとえば、静子にとっての渇きは「名声」である。彼女は自分の日記を太宰に見せ、その日記を参考にして「斜陽」が書かれた。表舞台に出たいと考えた彼女は共同著者として斜陽の表紙に自分の名前が載ることを望む旨の手紙を書いていた。
富江にとっての渇きは「貞節」である。彼女にとっての「貞節」とは愛した男にとっての一番の存在になること。そして全て投げ打って愛した男に尽くすことだ。子供という点で静子に劣り、立場として妻に劣る彼女が太宰にとっての一番になるために出した結論が彼と死ぬことだった。
このように、彼女たちの「渇き」は、あくまで彼女たちだけのものであり、太宰の「渇き」を癒やすことはない。

たしかに「斜陽」は売れたが、坂口安吾はそれを傑作ではない、と断じた。なぜなら世間はあの話を「男に捨てられる女の話」だと読んだが、「斜陽」は「女が社会を捨てる話」だからだ。「それを世間にわかる形で作ることができなかったのはお前の力量不足だ」と坂口は指摘する。太宰がこれに反論しなかった、あるいはできなかったのは、坂口が太宰の作品を正確に理解していたからだろう。

ヴィヨンの妻」にしても、世間は「どれだけ夫が無軌道な生活を送ってもそれを黙って受け入れてくれる聖母のような女性を表現した」と読んでいるが、太宰は美知子のしおらしさが憎らしくて書いたようだし、それは美知子も見抜いている。

大衆の文学に対する見方はいつだって浅薄だ。しかし、いやしくも文学の徒であるならば、愚かな大衆が読んだとしても「すごい」と言わしめるような作品を書かなければならない。そういう作品こそが太宰治坂口安吾の定義する「傑作」である。

自らの渇きを見つめるものは孤立する。他人と分かち合おうとして渇きを見つめれば見つめるほど自身の渇きは細分化され、結局他人とそれを分かち合うことは難しくなる。

太宰にとっての渇きは「小説で傑作を生み出すこと」だ。それは売れることではない。表現者として自らの意図したものを正確に大衆に受け入れられること、文壇で唯一無二の存在であること、物凄い作品を遺すこと。太宰が富江と死ぬことを選び取ったのは、この「渇き」のせいではないだろうか。
三島由紀夫に死んで見せろと言われ、美知子から家庭を壊してでももっと凄いものを書けと言われた太宰はこう思ったのかもしれない。自らの死を持ってこの「人間失格」は完成するのだ、と。

凡人と天才とを分かつ資質とは「渇き」の総量の差である。「渇き」は時として人を死に至らしめる。「人間失格」は見事な映像美とともに太宰の「渇き」を描き切ったのだと思う。