ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

デタッチメントからコミットメントへ「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

村上春樹は「風の歌を聴け」でデビューし、2作目の「1973年のピンボール」を書いてから3作目の「羊をめぐる冒険」を書く。いわゆる鼠三部作と呼ばれる最初期のころの話だが、村上が二作目と三作目の間、つまり「1973年のピンボール」と「羊をめぐる冒険」の間に、「街と、その不確かな壁」という小説を書いていたことはあまり知られていない。

これは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の原型となるような話だが、村上自身は「街と、その不確かな壁」を完全な失敗作と捉えており、どの出版社からも単行本は刊行されていないし、全集にも加えられず、ただ1980年「文學界」9月号に載せられているだけだ。だからどうしても読みたければこの号の「文學界」をあたるしかない。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、その名の通り「世界の終わり」という話と、「ハードボイルドワンダーランド」という話の二つの話が交互に展開していく。前述した「街と、その不確かな壁」は、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が既読ならタイトルから類推できるように「世界の終わり」の世界の前身になっている。

村上春樹が全集の中の自作解説の中で、この本のタイトルをどちらかに絞りたいという出版社からのオファーがあって、それを断ったという旨の話があった。どれだけタイトルが長くなったとしても、この2つの話はそれだけ著者にとっては分かち難く結びついているのだろう。

 

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)新装版 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)新装版 (新潮文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/04/08
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)新装版 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)新装版 (新潮文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/04/08
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 まず、「世界の終わり」について考察したいと思う。物語は壁に囲まれた寓話的な「街」を舞台に展開する。物語の立ち上がりは遅く、登場人物はなかなか本音を見せないし、主人公の素性もわからない。
この話にとって象徴的なのは一角獣の存在だろう。壁の外へ自由に行き来するのは彼らだけである。ただし、彼らは年に一度厳しい冬にさらされることによって死亡し、獣の死体は門番によって焼かれる。彼らの頭骨には「古い夢」が入れられて図書館へと移送される。主人公はその頭骨から「古い夢」を読むのが仕事だ。

極めて内省的な話である。壁に囲まれた街とは、心の中を表現しているものだろうと思われる。「夢読み」という職業は謎に満ちているが、ぼくはこの職業に一番近い現実の職業とは「小説家」ではないだろうかと思う。自身の心は堅牢な壁に守られて、壁の外に唯一出入りすることを許された獣が持ってくる「古い夢」の意味を考えるのが「夢読み」の仕事だ。

一方で、「世界の終わり」が単独でしか存在しないとき、その大きな欠点とはあまりにも内省的に過ぎ、自己完結的であることだろう。村上春樹の小説を批評してたまに言われることだが、彼の小説の中には「他者」が出てこない。登場人物はみんな主人公の理解者であり、意見の相違のようなものはなく、衝突もなく、ただ主人公にとって居心地のいい世界に終始する。
その最たるものが「世界の終わり」であり、「街と、その不確かな壁」になるのだろう。だからこそ主人公にとってタフでハードな出来事が連続する、言わば居心地のわるい世界である「ハードボイルドワンダーランド」が生まれたのではないか。

「世界の終わり」に対し、「ハードボイルドワンダーランド」は理不尽で暴力的な雰囲気に満ちている。村上が影響を公言するレイモンド・チャンドラー作品に見られるような、「切った、はった」の世界観だ。
「計算士」の主人公は、高額な報酬と引き替えに自身の属する「組織」(システム)の規律に反するシャフリングを行い、「博士」の研究に協力する。しかしそれが原因で敵対する勢力である「記号士」や「やみくろ」から追われるはめになる。

「世界の終わり」とは、世界を拒絶し、壁のなかに篭る世界観であるが、そこから外へ出て行くという構造を持っている。逆に「ハードボイルドワンダーランド」とは、世界から絶えず試され、打ちのめされて翻弄される話である。そして、主人公は「世界の終わり」の内省的な世界の中に図らずも取り込まれる。つまり、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドは逆の構造を持っている。

なぜ「街と、その不確かな壁」が失敗作で、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が村上春樹の代表作なのか?
小説の構造には、著者の好むと好まざるとに関わらず「メタファー」が含まれることになる。「街と、その不確かな壁」は技術的な面で見れば当然「世界の終わり」に劣る。細かいエピソードのある無し、手風琴が出てくるかどうか、夢読みになるために門番に目を傷つけられるシーンがあるかどうか、『たまり』に図書館の女の子と行くシーンがあるかどうか、など細かい点はあるが、構造、あるいはメタファーに大きな影響を与えるような相違点は以下の二点に絞られる。
「街」は女の子の作り出した世界であるが、「世界の終わり」は主人公の作り出した世界である
「街」から主人公は影とともにたまりに飛び込んで脱出を試みるが、「世界の終わり」は、図書館の女の子の心を戻し、影だけがたまりに飛び込み、主人公は森へ逃げ込む

メタファーとは、誰が、何をして、その結果どうなったか、という構造によって何を表現するか、ということに尽きる。「壁」が失敗作なのはその構造に力がないからだが、「世界の終わり」には力がある。
なぜなら、「街と、その不確かな壁」は女の子と永遠に暮らすために彼女の作り出した街の中に入った主人公が、影を殺して心を失う覚悟ができず、彼女のもとから逃げ出す話だが、「世界の終わり」は自分の作り出した世界の中に囚われた主人公が、その世界への責任のためにとどまる話だからだ。

「世界に対する責任」というキーワードは、その後村上作品の中で大きな意味を持つ。初期の鼠三部作は世界に対する責任を放棄し、あらゆる愛着を捨てて超然としていることで価値を生み出そうとする「デタッチメント」の世界だった。しかし、そこから少しずつ村上作品は「世界に対する責任」について考えるようになってくる。読者の好みはあるだろうが、より柄の大きい物語を作り出すために村上春樹はそちらの方向に舵を切ったのだろうと思う。
あるいは、デタッチメントで作品を書くことの限界を悟った、と言い換えてもいいかもしれない。夢読みは獣の頭骨の中に含まれる「古い夢」を読み解くのが仕事だが、その古い夢とは街の人々の感情であり、自我であり、エゴである。獣は街からそれらを運び出し、夢読みがそれを読むことで人々はそれらをなくしていく。街はそれで完全になっていくが、影はそれを「不自然だし、間違っている」と弾劾している。言い換えれば、このままデタッチメントのスタイルで書いていくことで自分の作品はどんどん痩せて枯れていくだろうし、それで世界との関わりを絶ったまま完全に近づいていったとしてもそんなものは「不自然だし、間違っている」と村上春樹自身が考えたのかもしれない。

一人の作家の作品を年代から順に追って読みこんでいくと、その作家の作家性が確立されていく経緯が読み取れる。それは「戦略」と言うと実質的にすぎるが、作家自身の「本性」や「人間性」を探る試行錯誤と言い換えたほうがしっくりくる。自分が本当には何を求めているか、はじめから明確な人間は存在しない。どう試行錯誤してそれを明確化していくか、そのプロセスが一人の作家の作品を年代ごとで追うことで追体験できる。読書をするうえでそういう楽しみかたも悪くないと思う。「街と、その不確かな壁」は正直なところ小説としては荒削りで退屈だ。しかし、我々が小説を読むとき、その小説の中には作家が不要だと考えて切り捨てたものは残ってはいない。小説を書くことは、何が必要で何が不要かを選別する作業とも言える。そういう意味で、村上春樹が切り捨てるはずだったものを読むことができるのはファンとしては興味深いと思う。

なお、当該の「文學界 1980年9月号」に含まれる「街と、その不確かな壁」は国立国会図書館の複写サービスを利用すれば入手可能である。著者はその方法で複写を入手した。P46〜P99を指定すれば「街と、その不確かな壁」だけを複写して送付してくれるので、興味のある方は一読してみてもいいと思う。