ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

文学の時代性、地域性について「うたかたの日々」

昔、優れた文学というものは、時代や地域に関係なくあらゆる時代のあらゆる地域の人間にとって心に響くものだとおもっていたが、最近はその考え方が狭量に過ぎたと思う。ある時代、ある地域に生まれた人間が書いた小説は好むと好まざるとによらずその時代と地域の影響を受けているからだ。しかし、こう思われるかもしれない。政治的な主張や、イデオロギーの発露がなさそうに見える、この「うたかたの日々」のような小説でもそれが言えるのか?と。

はじめ「うたかたの日々」という小説をどう読んだらいいか分からず、序盤で思わずWikipediaの力を頼ってしまったのだが、その後はこの小説の持つ独特の世界にすんなりと共感できたように思う。

「うたかたの日々」は1947年に書かれ、パリを舞台にしている。1947年といえば、ぱっと思いつくのは第二次世界大戦の戦後すぐの頃であり、その当時のパリというのはナチスドイツの占領から回復(1944年8月)した直後のことだ。

そこからぼくはこの小説の時代性と地域性を感じ取った。それは一体何か?

以下考察していきたいと思う。

 

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

  • 作者:ヴィアン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2011/09/13
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

この小説のキーパーソンになるのは、シックとアリーズが傾倒する哲学者ジャン=ソル・パルトルではないだろうか。ジャン=ソル・パルトルは実在したフランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルのパロディとして描かれている。

サルトルについて書きたいと思う。サルトル実存主義を唱えたフランスの哲学者で、「実存主義とはなにか」「嘔吐」「存在と無」などの著書が代表作だ。実存主義についてごく簡単に書くと、「人間にはあらかじめ決められた本質というものはない。実存が先に存在し、あとで本質が決められていく」ということになる。つまり、善人として生まれる、あるいは悪人として生まれる人間はいない、というのが実存主義の根本的な考え方だ。

この考えは当時のパリに衝撃を与えた。おそらくそれはナチスによる占領の経験が影響を与えていると思う。占領当時、ユダヤ人迫害の情報はほとんど入ってこなかった。パリでもホロコーストが進められており、多くのパリ在住ユダヤ人が強制収容所に送られた。古い映画だが、「カサブランカ」にこんなシーンがあって記憶に残っている。フランス領モロッコカサブランカ」のレストランにナチス・ドイツの軍人が現れてドイツ国歌を流させようとすると、その場にいたフランス人が団結して彼らを追い出してフランスの曲を流す、というものだ。「当時パリの人間はすべてレジスタンスとしてナチスドイツと戦った」これがフランスが信じようとしたファンタジーである。

もちろんこれはファンタジーであり、現実は、別のところにある。大戦末期、国力の減衰しているナチス・ドイツの締め付けはそれほど強くないにも関わらず、パリの人間の一部は、ユダヤ人を密告して強制収容所に送った。これまで隣人として暮らしてきた人々をだ。そして戦後、ナチス・ドイツ強制収容所で何が行われてきたかを知り、フランス中は愕然となる。

疑心暗鬼に包まれ、国の存続自体が危うくなった戦後フランスは、すべてのパリ市民がレジスタンスとして戦った、という「カサブランカ」のようなファンタジーに頼らざるを得なくなった。それは大変なストレスであっただろう。そこにサルトルのようなスターが現れた。彼は人間に本性はなく、何をしたかでその本性が決定されるのだ、という実存主義を提唱する。かくして彼は時代の寵児となり、いろいろな問題が発生するたびに彼の意見をフランス人がみな聞きたがるようになった。それこそ「うたかたの日々」に登場するパルトルのような人気を誇っていたそうだ。

「うたかたの日々」に戻る。この小説は、まず、捉えどころのない小説だと感じた。ハツカネズミは喋り、ピアノから曲に合わせたカクテルが出る。蛇口からうなぎが出てきてパイナップル味の歯磨き粉をなめるし、なんの脈絡もなく主人公がスケート場のボーイを殺したりする。
ニコラは料理人だが、丁寧な言葉遣いをやめろ、とコランから指摘されるし、姪のアリーズから成功者だとみなされている。シックは技師だが、彼の賃金は彼が監視している労働者より低いと記述されている。
「何を信じていいのかわからない」それがこの小説を規定しているテーゼではないだろうか。

文学が、というかあらゆる人間が時代と地域の束縛から逃げられないというのには理由がある。まず、どんな人間にも「自分の生活をよくしよう、心地よくしよう」という気持ちがある。そう思った場合、どう行動すればいいだろうか?そう考えたとき、人は時代と地域から逃げることができない。
ある時代、ある地域では、狩りをする能力が求められたかもしれない。重い石器を持つ力とサバイバル能力、群れを守るために他の部族の男たちと戦う力が求められたかもしれない。あるいは、ある時代には規則を守る心が重視されたかもしれない。それがどんなに理不尽な命令であったとしても、不眠不休で命令をこなす忠誠心が何よりも重視された時代、地域があったかもしれない。このように、心地よく生活をする上で必要な知識、技能は時代と地域によって変わる。もしも英語が喋れるだけで年収が二倍になるなら、人々はこぞって英語を勉強するだろうが、英語圏の国ではこの限りではない。プログラミングの能力の場合、パソコンが普及する前にこの能力があったとしてもなんの意味もない。また、親が子を養っていく能力があるのなら、子は部屋に引きこもって仕事や勉強などをしない、という選択肢もありうる。人間は心地よく生きるために最適化する。

1947年のパリは、何を信じていいのかわからない、という状態だったのだろう。隣人を愛しても、その愛が命取りになることもある。圧倒的な暴力の前にはなすすべもなく屈服せざるを得ない。

「うたかたの日々」でも、コランはクロエの肺のなかに巣食う睡蓮をどうしていいのかわからない。抗体もなればワクチンもない。できることは彼女の病室を花で埋め尽くすことだけだ。

作者のヴィアンは、ある意味サルトルを、というよりもサルトルに傾倒している人々を非難していたのかもしれない。「何をすれば心地よく幸せに暮らしていけるか」その価値観がゆらぐ世界の中で、信じられるものは「きれいな女の子との恋愛だけだ」と冒頭で言っている。うたかたとは水面に浮かぶ泡のことだが、ヴィアンは泡のように実体のない、移ろいやすい世の中をシニカルに捉えていたのではないかと感じた。時代性と地域性の知識なしでこのメッセージを受け取るのは難しい。

 

 なお、この小説はフランス映画になっている。とても映像化に向いた作品で、原作小説よりもできが良いんじゃないかと思うくらい。2013年公開のようだが、とてもレトロな感じの雰囲気になっている。「アメリ」などのフランス映画が好きな人は気にいるんじゃないだろうか。蛇口からうなぎが出てきてもぜんぜん気にならない。というか、かなり自然だった。興味のある方はぜひ。

ムード・インディゴ~うたかたの日々~(字幕版)

ムード・インディゴ~うたかたの日々~(字幕版)

  • 発売日: 2014/08/01
  • メディア: Prime Video