ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

そこに必然の恋はあるか? 「国境の南、太陽の西」

 

「僕たちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も知る必要がある」
哲学者 ジャン=ポール・サルトル 

 

フランスの哲学者サルトルが内縁の妻である、同じくフランスの哲学者ボーヴォワールに話したと言われているのがこの台詞だ。これを読んでなんたる浮ついた気障男か、あるいはなんと自分に都合のいいことを言う男か、と憤慨される人も多かろうと思う。しかしそういう感情はいったん脇に置いておいて(置いておくことは無理だという人も多いでしょうが)考察していきたい。二人の間に何があればサルトルの言うところの「偶然の恋」でなく「必然の恋」だと言えるのだろうか?

ぼくは普段それほど恋愛小説は読まないし、恋愛映画や恋愛をメインにしたドラマも見ない。ぼくは村上春樹の小説が好きで、全て読んでいるのだけど、彼の小説の中で何が一番好きか、と問われると、この「国境の南、太陽の西」を挙げる。巷にあふれている恋愛小説は、重要な点が欠落していると考えるからこそ、がっかりしてしまったり、なんだか最後まで乗れなかったりするのだが、この小説だけは別だ。(不倫を主題に置いているためになかなか人には勧めづらいし、合う人と合わない人の差も激しいとは思うのだけど)

恋愛小説において重要なこと、それは「自分の恋愛の相手は彼女(あるいは彼)でなくてはならない」という必然性ではないだろうか?もしその必然性に説得力がなく、他の誰でもいいのであれば恋愛小説のなかのドラマは成立しない。相手が誰でもいいのなら、どれだけ愛を叫んでも空虚だし、ふたりの愛の間に障害があるのなら別の相手を探せばいいだけの話だ。

 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

 

 

 

国境の南、太陽の西」は、早熟な女の子「島本さん」と、ごく平凡な家庭に育った「ハジメ」の恋愛小説だ。1951年生まれの二人は、当時としては珍しい一人っ子という共通点があった。島本さんは小学校5年生のときにハジメのクラスに転入してきた。ふたりは近所に暮らしており、よく島本さんの家で彼女の父親のコレクションであるレコードを聞いて過ごしていた。ところが、中学進学で別の学校になったこと、島本さんがまた引っ越してしまったことをきっかけに二人は疎遠になる。ハジメは心のなかで島本さんのことを思いながらも、その間幾人かの女の子と付き合い、そのうちの一人と結婚する。それから会社員を辞めて港区青山にジャズバー「ロビンズ・ネスト」を開業し、妻の有紀子との間に二人の女児が生まれる。ジャズバーの経営は順調すぎるほどに順調で、ハジメは「ブルータス」にジャズバーの経営者として取材を受ける。それ以来旧知の仲の人間が幾人か彼のジャズバーを訪ねてくる。そして数ヶ月後「ロビンズ・ネスト」に最後の古い馴染みが来訪する。それが島本さんだった。

どうして彼女ではなくてはならないか。「国境の南、太陽の西」の前半部分は、ほとんどその必然性についての記述だ。小学校時代の二人は互いの秘密を共有するように音楽を聞いた。ナット・キング・コールの国境の南、プリテンド、ビング・クロスビー。島本さんは足が悪く、いつも少し左足をひきずるように歩いていたのだが、ハジメはそれを疎ましいと思うどころか、彼女の歩調に合わせて歩くことを好ましいこととすら感じている。まるで二人の間にある親密な秘密のように。
ハジメは二人の関係を以下のように考えていることがわかる。

ねえ島本さん、いちばんの問題は僕には何かが欠けているということなんだ。僕という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠けているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその部分はいつも飢えて、乾いているんだ。その部分を埋めることは女房にもできないし、子供たちにもできない。それができるのはこの世界に君一人しかいないんだ。

このセリフには必然性のすべてが語られているように思う。ハジメという人間の欠落は、島本さんにしか埋めることができないのだ、と。ハジメはそれを信じるからこそ、妻子がいるにもかかわらず彼女との関係にのめりこんでいく。「あなたには私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの」と島本さんに言われたとき、ハジメの葛藤は最高潮に達し、読者は彼と一緒に苦悩することになる。

小学生時代のハジメにとって、島本さんはジャズやクラシックなどの「新しい世界」を見せてくれる女の子であり、実際彼らの趣味はよく合った。いつまででもこれらの話をすることができ、二人は深く精神的に結びついている。しかし、初めてできたガールフレンドのイズミや、妻の有紀子とはそれが叶わなかった。彼女たちは好んで音楽を聞かないし、聞いたとしても趣味が合わなかった。

あるいは「その程度のことで」と首をかしげてしまう人もいるかもしれないが、芸術の分野の趣味が合う、合わないというのは恋愛にとっては重要なことではないかと思う。あらゆる芸術は他人と感情をシェアするためにある。あらゆる芸術は、作り手がこの世界の一員としてシェアしたいというなんらかの感情を込めて生み出される。ある人にはそれが届くし、ある人にはそれは届かない。瓶に詰めて海に流すボトルメッセージのようなものだ。世界は雑多な情報にあふれているが、そこから何をすくいとり、どんな意味を見出すか、というのはその人間の人間性を示す資質だ。そういう意味で、ハジメにとっては島本さんしかいない。彼はそう信じて生きてきた。

この小説のラストは、ネタバレになってしまうので控えたいが、読んでいて以下のことを考えた。果たして完全に自分の欠落を埋めてくれるような人間が存在するのだろうか?ハジメが言うように、島本さんという女性は、ハジメの運命の人なのだろうか?それはなにかを投影したものではなかったのか?だからこそ、あのエンディングだったのではないだろうか?二人はあまりに長い間離れて暮らしすぎた。そして、その失われた時間を埋めるにはあまりに時間がたちすぎていたのだ。そう考えると、寂しく、もの哀しい気持ちになる。この小説もまた、一種のボトルメッセージなのだろう。

ところで、前述のサルトルは、最期の瞬間までボーヴォワールと連れ添ったと言われている。昼間はいろいろな女性とランチをしていても、夕食はボーヴォワールと食べたそうだし、ボーヴォワール自身も「偶然の恋」を楽しんだ、ということだ。物議を呼びそうな関係ではある。しかし、この事実は、他人がどう噂しようと、二人の間にあったものが「必然の恋」であったことの証左ではないだろうかと思う。