ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

本音を言わない人たち「高慢と偏見」

再読して改めて感じたが、この小説の魅力は極めて繊細で、驚く程難解だ。なにしろ、登場人物たちはストレートに自分の感情を表現しない。

村上春樹が小説の創作について、「優れたパーカッショニストは一番重要な音を叩かない」と表現したが、その表現は言い得て妙だ。伝えるべき一番重要なことを彼らは相手に伝えていない。

しかし、よく考えてみると、現実の我々の世界でもまた重要なことを話すとき、しばしば彼らのようにふるまっている。話題が重要なことであれば、我々は他人からよく見られようとし、保身に走る。その結果事実ではないことを述べたり、言いにくいことをはぐらかしたりする。しかもそれを無意識のうちにやってのけ、意識していなかったと嘘をつく。

ぼくはオースティンの文学の卓越性は「恥」の感覚とその表現にあると考えている。登場人物が婉曲表現を使うのは何かに対して恐れを感じ、恥ずかしい思いをすることを回避しようとしているからだ。しかし、彼らは一体なにを「恥」としているのか?そして、なぜ「恥」こそが重要なのか。

結論から言えば、『何を「恥」とするか?』という感覚こそがその人間を定義しており、だからこそ重要なのだとぼくは考えている。

それについて考察していきたい。

 ネタバレを含むので、未読の方はご注意いただきたい。

 

高慢と偏見(上) (光文社古典新訳文庫)

高慢と偏見(上) (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

高慢と偏見(下) (光文社古典新訳文庫)

高慢と偏見(下) (光文社古典新訳文庫)

 

 

 


高慢と偏見」は、イギリスのジェントリ階級に属する青年男女の恋愛を主に描いたものだ。特筆すべき人物は多いが、複数人取り上げるとそれだけポイントがぼやけてしまうので、今回はダーシーに絞って考察していきたいと思う。

ダーシーという青年の身分は高く、かなりの資産家である。加えて見目麗しく、相当な美男であることが作中で表現されている。となれば当然彼の心を射止めようとする女性は多いはずだが、その一方でダーシー本人の性格は高慢で、他人を見下す人物として描かれている。実際、彼の高慢さがエリザベスに対し「踊りたいと思わせるほどの美人じゃない」と言わしめる。それを聞いたエリザベスは彼に反発して、以後彼から踊りに誘われても応じないようになる。

結ばれる予定の二人であるが、第一印象としては最悪である。エリザベスはダーシーを高慢な人間だとみなすが、ダーシーはエリザベスに対して少しずつ惹かれていく。両者の感情は噛み合わないまま、求婚からその拒絶へと至る。

しかし、物語が進むにつれ、徐々にエリザベスのダーシーに対する偏見は解かれていくことになる。その一助となったのがダーシーと幼なじみのウィッカムという青年の存在だ。ウィッカムは放蕩者で身持ちが悪く、ダーシーの一家からの支援を使い果たしてなおも金に困っている。ダーシーはウィッカムに対し最後通牒を行い、まとまった額の金を渡してからは一切の関わりを絶ち、彼にした施しも世間に隠している。ところが、ウィッカムの方はダーシーが黙っているのをいいことに、事実を曲げて世間に自らの潔白とダーシーの非人情を訴える。

「恥」という観点でみたとき、ダーシーとウィッカムはまったく正反対の性質を持っている。

ウィッカムは自分が有利な立場になるためなら嘘をつくのも厭わないが、ダーシーは自分が有利に働く事実であっても場合によっては黙っている。それは、ウィッカムがいかにひどい行いをしたとしても彼への責任が自分にあると考えているからだ。ウィッカムがリディアと駆け落ちしたときも、ダーシーは裏で動いて二人の結婚話をまとめたが、そのことを決してエリザベスに吹聴したりはしなかった。

「恥」というとネガティブなイメージがあるが、一方で誰もが身につけていなければならないコモンセンスとしても考えられている。例えば、「恥知らず」などという言葉があるが、これは我々が「恥」に対して抱くネガティブなイメージとはちょっと趣が異なる。

何を「恥ずかしい」と思うか?恥の感覚は、あたかも誰もが感じる共通認識のように思われるが、実際のところ、その感覚は人によってかなり違う。

エリザベスがダーシーに惹かれたのは、ダーシーの恥の感覚にある。何を恥ずかしいと思うか、という点で、彼女とダーシーはよく似たセンスをもっている。だからこそはじめは最悪の印象を持っていたダーシーと結ばれることに説得力が生まれる。

読者は、ウィッカムを恥知らずだと感じ、ダーシーを高潔な人物だと感じるように誘導されているが、この誘導に気持ちよく乗れるかどうかも読者に委ねられるところが大きいだろう。

「恥」というのは物語という形式でしか表現できない感覚であると思う。そういう意味でこの小説はきわめて繊細である。また、ダーシーやエリザベスの感じる「恥」の感覚は、ある程度の知識(英国の相続制度や家制度、持参金などの時代背景)とある程度の人生経験を要求される。そういう意味でかなり難易度の高い小説だ。

これがぼくの「高慢と偏見」という小説の繊細さと難解さの印象だ。しかしながらこのように繊細にして難解、加えて優れて文学的な小説を弱冠二十歳にして作り上げたオースティンの才能にはまったく驚くよりほかない。