ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

本物のまやかしとはなにか 「ティファニーで朝食を」

もっと若いときに読んだときは、ホリー・ゴライトリーという女性はなんてわがままで好き勝手しているのだろう、これほど自由奔放に振る舞っているのならばさぞ本人は楽しいだろう、と思って読んでいたが、それなりに大人になってから読むとまったく別の感覚に囚われる。たぶん、ホリー・ゴライトリーはあんまり幸せではない。というか、かなりしんどいだろうと思うし、自分の生き方がしんどいとわかっていてもそのしんどい生き方以外を選択することができないのではないかと思う。ある意味で彼女は自由とは程遠い存在だ。

とはいえ、彼女は基本的には軽薄で思いやりにかける。あれほどホリーに尽くした主人公の本名を結局一度も呼んでいない。口を開けばお金やきらびやかな社交界の話ばかりする即物的な性格をしている。はっきり言ってあんまりお近づきにはなりたくない種類の人間だ。にもかかわらず多くの読者はホリー・ゴライトリーという人物に強く惹かれ、彼女の行く末をこの小説の主人公同様に案じてしまう。それはいったいなぜなのだろう?

それはおそらく一言でいうならO・J・バーマンが指摘したように、彼女がまやかしはまやかしでも本物のまやかしだからなのかもしれない。もっと詳しく言うなら、彼女は本気で自分の理想、自分の作り出したまやかしを追い求めており、そのまやかしと現実とのギャップを埋められないからこそ苦しむ。しかしそれでも彼女はまやかしを捨てられないし、捨てるつもりもない。そのひたむきさが人の心を、とりわけ理想と現実との狭間で苦悩する人間の心をうつのではないかと思う。

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

 

 

 


ところで、ご存知の通りティファニーとは宝石店のことで食堂でもカフェでもない。だからそこで朝食なんて食べられない。
(余談だが、ティファニーのニューヨーク本店でカフェが2017年にオープンしているので、ティファニーで朝食は食べれるらしい。個人的にはなんだかな、と思わないでもない)
原作にはティファニーでのシーンすらない。(主人公のホリーへのプレゼントはティファニーで買ったものだが、それを買うシーンはない)
ただ、ティファニーとは何かの象徴であり、それがホリー・ゴライトリーの、というかこの小説を読み解くうえでの根幹をなすメタファーであるらしいことは想像できる。

宝石つながりであることを思い出してそれがどうしても気になったので、ちょっと調べてみたのだれど、この「ティファニーで朝食を」という小説が出版されたのは1958年で、ダイヤモンドを人工的に作れるようになったのがその5年前の1953年だそうだ。まったくなんの根拠もないけれど、もしかしたらカポーティはダイヤモンドを人工で合成できるようになった、というニュースをどこかで見てこの小説を着想したのかもしれないな、と思った。

そもそもなぜこんなことを調べたか、というとこの小説を読みながらあるドキュメンタリー番組のことを思い出したからだ。それは「世界の今をダイジェスト」というNetflixオリジナルの番組で、ダイヤモンドの特集の回だ。その番組によれば、天然ダイヤモンドと人工ダイヤモンドは人の目で見て見分けることはかなり困難で、特殊な機械を使ってその違いを見分けるしかないうえ、不純物が混じった天然のダイヤモンドよりも不純物のまじりにくい人工のダイヤモンドのほうがむしろ見た目も美しい。そしてなによりも圧倒的に安くつくることができる。ダイヤモンドは地球上で最も硬いため、今現在金属切削のための工具として工業的に利用されたりもしている。かつて紛争の原因にもなるほど高価だったダイヤモンドが今では金属加工に使われる使い捨ての工具として利用されるほど安価に手に入る。

順当に考えれば、天然のダイヤモンドに市場価値はなくなり、人工ダイヤモンドだけが市場を流通するようになる。しかし、そうはなっていない。これはまったく理屈に合わない買い物である。もし他の買い物、例えばパソコンだとか、洗濯機などがより性能がよくて美しくて安いものが選択肢としてあるのなら、当然それを選ぶはずだ。

しかし、今もなお天然のダイヤモンドを、人々は高い金を払って宝石店、たとえばティファニーから買い求めるわけである。そこになにを求めているのか? それはたぶんO・J・バーマンがホリー・ゴライトリーを指して言ったのと同じたぐいの「まやかし」ではないかと思う。

小説の話題に戻る。
この小説が優れているのはひとえにカポーティの人を見る目の鋭さによるものではないかと思う。この小説にはあらゆる種類の「まやかし」が存在する。
ラスティーにとっては「金」、ホセは「権力、あるいは家柄」、ドクは「愛」だが、彼の愛はどこか歪で不健康な印象を持つ。バーマンはホリーをハリウッドで成功させるという「夢」を持っている。
この小説の中にはいろいろな種類の「まやかし」が存在するが、本物のまやかしだと思えるのはやはりホリーだけではないか。彼女はそれを諦めることができないし、それを手に入れるためならありとあらゆる努力を惜しまない。

主人公は何かとホリーの世話を焼くが、これは主人公がホリーのことを恋愛の対象として好き、というよりも同志として惹かれているのではないだろうか、と感じた。主人公はあまり自分のことを語らないが、就職せずに小説を書き続け、原稿料をもらえなくても文学雑誌に自作の短編が載ることを喜ぶところから、彼自身もホリーと同様にまやかしを本気で追い求めている人物のように見える。彼らはそういう意味では似たようなまやかしを追いかける同志だと言えるかもしれない。だからこそ二人は共鳴し、主人公は一見エキセントリックに見えるホリーへ共感するのだろうと思う。
人はパンのみで生きるにあらず。かつてまやかしを追い求めた者、いまも追い求めている者、そういう人たちがホリー・ゴライトリーという本物のまやかしを見て、そこに自らのまやかしの残滓を見出すのかもしれない。