ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

芸術か猥褻か、知性か本能か?チャタレイ夫人の恋人

1929年。イギリスで初めて出版された「チャタレイ夫人の恋人」は著者ロレンスの判断でオリジナルの内容から性描写が割愛されていた。オリジナルは知人のみに配布されたが、海賊版が横行していたらしい。

1960年、性描写をオリジナルに戻した無修正版チャタレイ夫人の恋人は、当時のイギリスで猥褻文書として告訴され、1950年日本で無修正版が日本語訳されて出版されたときにもその性描写が「公序良俗を乱す」として議論を呼んだ。
結局のところイギリスで本書は無罪だったが、日本においては最高裁で敗訴、絶版となっている。

確かに性描写は多いし、そこそこの分量もあるが、どちらかと言えばその内容は抽象的であり、表現は婉曲的だ。貴婦人と使用人の恋というのは当時としては背徳的な関係性であっただろうが、性描写単体として見た時、とりたてて目を引くような奇異さ、公序良俗を乱すと感じられるような描写はない。
Amazonのレビューでも、読書会においても、どちらかと言えば俎上に上げられたのは、「なぜこの本がそれほどまでに性描写で耳目を集めたのか?」ということだった。

僕はこの本を読んでいて、グスタフ・クリムトの書いた3枚の天井画のエピソードを思い出した。医学、哲学、法学と題され、ウィーン大学の講堂の天井を飾る予定だった絵だ。

この絵も、チャタレイ夫人の恋人同様、当時多くの議論を呼んだ。

依頼主のウィーン教育庁は「知性の権威」である大学に飾るにふさわしい主題をクリムトに求めたのだろうが、彼が書いてきたのは、あきらかに耽美的で本能におもねるような内容だった。「医学」について言えば、死神が恍惚の表情を浮かべた裸体の女性を引き寄せるような描写がされている。

この絵の主題は「知性の敗北」であるとも思える。


クリムトの天井画とチャタレイ夫人の恋人。二つに共通するのは、「権威に対する挑戦」だ。
今では何事もなかったかのように無修正版のチャタレイ夫人の恋人を読むことができるが、それは実は僕達がとても幸せな時代を生きているということの証左なのかもしれない。

 

 

チャタレー夫人の恋人 (光文社古典新訳文庫)

チャタレー夫人の恋人 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 


チャタレイ夫人の恋人は1918年、第一次世界大戦後のイギリスを舞台に展開される。当時のイギリスは厳しい階級差別があった。
厳密には貴族ではないものの、領地(ラグビー)を持ち、働かなくても年貢で暮らしていける身分、『ジェントリ』に属するのがクリフォード・チャタレイと、その妻であるコニー・チャタレイ、つまり、チャタレイ夫人だ。

新婚一ヶ月ほどでクリフォードは第一次世界大戦に将校として参戦。肉体的にも精神的にもこてんぱんに打ちのめされて帰還する。彼は戦争の犠牲になり、今では下半身不随の状態だ。
二人は性的接触がほとんどないまま大戦に巻き込まれ、クリフォードは今後も性機能快復の見込みがない。従ってラグビーには後継者が望めない。

クリフォードとコニーは当初性的な結びつきよりも精神的な結びつきを重要視し、知性を肉体よりも上位のものと考えていた。
クリフォードはラグビーを守らなくては、と考えているためなんとしても男子が必要だ。そこで、同等の身分で口の堅い男と性交渉し、その結果授かった子どもをラグビーの領主として育てることをコニーに提案する。

その時の彼のセリフが以下だ。

僕の考えでは、たまさか得られる快感などより、習慣のほうがよほど深い。着実に続くもの、それを頼りに人は生きる。一過性の衝動ではない。夫婦がともに歩みながら少しずつ調和していき、複雑な響きを奏であう。ここに結婚の神髄がある。房事にあるのではない。

クリフォードのこのセリフからチャタレイ夫人の恋人の全体としての方向性が決まったように感じた。つまり、この物語は、知性(あるいは知性からなる秩序)と本能の戦いなのだ。この小説は恋愛小説でありながら、知性と本能がどう戦い、どちらが勝利するのか?に主眼が置かれている。
(ちなみに寡聞にして知らなかったのだが、『房事』(ぼうじ)とはセックスのことだそうだ)


結論から述べれば、チャタレイ夫人は自分よりも身分の劣る森番、チャタレイ家の使用人であるメラーズとの逢瀬に夢中になり、彼と駆け落ちを決める。つまりは、知性よりも本能が勝利したかっこうだ。

では、彼らは一点の曇もなく幸せなのだろうかというと、どうもそうではなさそうだとわかる。
コニーはメラーズの子供を身ごもり、表面上は幸せいっぱいに振る舞う。あなたの子供を生むことができて幸せだという態度をメラーズに対してとるが、同時に彼に「子供ができて幸せだと言って」と迫る。
もしも彼女が留保のない幸福であるならば、そうやってメラーズに迫る必要などないだろう。やはりどこかで不安を抱えている。それに、メラーズはただ動揺するばかりではっきりと子供ができて幸せだと明言していない。

そう単純には本能が勝利した、とはいえない状況だ。

では、彼らは一体どこで間違えてしまったのだろうか?ボタンはどこで掛け違えられたのか?

 

人間である以上、知性と本能は切り離すことができない。
知性を上位のものと捉え、知性さえあれば肉体のどのような欲求をも押さえ込むことができると考えてしまったのがクリフォードの過ちであっただろう。では、知性を捨てて本能だけで生きるとすればどうだろう?それはもはや人ではなく獣としての生である。
メラーズが返事に窮したのは、彼が将来を不安に思ったからだろう。
今現在の欲求だけに流されず、一年後、五年後、あるいは何十年後のことも考えること。それは獣にはできない。知性のある人間にしかできないことだ。

 

翻って、この作品が猥褻か芸術かという問題について言及したい。
パブロ・ピカソが言うように、「芸術とはわれわれに真実を悟らせるための嘘」である。
だとするならば、小説という名の芸術は「人生の真実」を描いている。
人生には猥雑な部分が必ず含まれる。処女の胎内から生まれることは、誰にもできない(原則的には)。房事を注意深く避けていたとしても、その機能が人間に含まれている以上、そこから完全に自由になることはできない。

つまり、芸術か、猥褻か?という議論は不毛以外の何者でもない。文学が人生の真実を書くというのなら、ことに男女の性愛を描く上で猥褻さが含まれない文学など、文学とは呼べないのではないか。

 

クリフォードの敗因は知性が本能を屈服させられると考えたことだろう。その点は、クリムトウィーン大学の騒動にも通じるものがある。
権威はときとして知性が完全に本能を屈服できると考える。
当時の日本やオーストリア、そしてイギリスは、クリフォードと同じ考えに取り憑かれていたのだろう。
権威を守るためには「本能によって権威が踏みにじられるこの物語」に過剰に反応せざるを得なかったのだ。

 

ところで、冒頭で述べたクリムトのこの天井画は、まことに残念なことに第二次世界大戦中、戦火に焼かれて消失し、いまではモノクロの複写しか残っていないという。
戦争という「本能」に、芸術という「知性」が焼かれる結果に終わったというのが、哀しいけれどなんとも人間らしい。