ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

おじさんは、遠きにありて思ふもの 「現代日本の開化」【日本人について思うこと】

 

「おじさん」という日本語について最近よく考えているのだけど、「おじさん」というのは不思議な言葉で、存外、定義が難しいように思う。「おじさん」は一般的には血縁関係にない中年男性を指すが、誰かに向かって「おじさん」と呼びかけるのは大変失礼にあたるので本人を前に「おじさん」と呼ぶ人は多分、あまりいない。「あの人はおじさん」と本人がいないときに言われる場合もあるけれど、そういう場合はあんまりいい意味ではないような気がするし、「おれももうおじさんだよ」と本人が言う場合、どこか自嘲するようなニュアンスがある。

 

40〜64歳を中年期と呼ぶが、その年頃になると男性はもれなく全員おじさんになるのだろうか?ぼくは30代後半で、そろそろおじさんと呼ばれる年齢に到達しようとしているが(いや、若い人から見ればもうとっくにおじさんになってるかもしれないが)今も昔もおじさんという言葉から連想されるのは「未来」であるように思う。これはたぶんぼく自身が40代になっても50代になってもあんまり変わらず、もしかしたら死ぬまでそうかもしれない。なりたくないなぁと思いつつ、徐々におじさん化し、名実ともにおじさんになっていても「おじさんにはなりたくないものだなぁ」とボヤいているのかもしれない。あるいは今現在もすでにおじさん化しているのにこうしてボヤいているのかもしれない。誰しも自分のことは客観的に見られないものである。

 

各自の頭の中に様々な「おじさん」像はあるかと思うが、このエントリでは、「おじさん」とは「未来」であり、自らの父親や、学校の先生、会社の上司など、周りの年上男性の嫌な部分から醸成されたとりわけ「悲観的な未来」と仮定したいと思う。「おじさん」のイメージが悪いのは、日本の男性が自らの将来像を悲観していることではないかと思う。周りの大人が全員楽観的な未来像、つまりこうなりたいと思うような大人なら、おじさんという言葉はなくなるか、あるいはもっとポジティブな意味になるかもしれない。このエントリーの目標はそこに置きたい。

 

 

 



加齢による身体的変化は仕方がないとしても、「未来」は待ち遠しくなるくらい楽観的なほうが望ましい。最近読んだ文章で、このトピックにぴったりなのがあった。夏目漱石が和歌山で講演した「現代日本の開化」の原稿だ。これはkindleで無料で読むことができるし、とっても短いので興味があれば手に取ってみることをおススメしたい。残念ながらおじさんにならずにすむためにはどうしたらいいか?という話ではないが、解決の糸口になるようなことが書かれているように思った。

 

夏目漱石が和歌山でこの講演を行ったのは1911年。近代化、つまり「開化」によってテクノロジーが進んできたが、ちっとも我々は幸せにはならず、むしろ競争が進んで苦しくなるばかり。これはどうしたものか、という話で、100年以上前の講演なのにどこか既視感のある議題だ。

 

夏目漱石は「開化」というものがどんなものなのか理解している日本人は少ないと思う、と前置きしてこの講演を始めた。欧米が「内発的」な動機で開化したのに対して、日本は「外発的」な動機によっていわば無理やり外からの要請で開化させられたので実が伴っていない。だから大人たちはみんな上滑りしている。これはまずい、と思って講演の議題に選んだそうだ。

開化によって日本が豊かになったため、今日食えるかそれとも死ぬか?という問題は現代日本においては主眼におかれなくなった。曰く問題は、「生きるか死ぬか」ではなく、「生きるか生きるか」というような具合になった。つまり、「Aのように生きるか、Bのように生きるか」という問題になった。漱石先生の例えが面白いのでそのまま引用する。

 

「早い話が今までは敷島かなにかをふかして我慢しておったのに、隣りの男がうまそうにエジプトタバコをのんでいるとやっぱりそっちがのみたくなる。またのんでみればそのほうがうまいに違いない。しまいには敷島などをふかすものは人間の数へ入らないような気がして、どうしてもエジプトへのみうつらなければならぬという競争が起こってくる。通俗の言葉でいえば人間が贅沢になる」

 

というわけだ。

 

おじさんの話をしていたはずなのに、いきなり戦前日本の開化の話になって面食らうかもしれないが、まぁ、待ってほしい。「開化」とはすなわち成長のことではないかと思う。現代日本は戦前戦後で急速に成長を遂げた。人間と同じだ。ちょっとした病気や事故で死んでしまう、か弱い幼児時代、未熟な少年期、見習いの青年期を経て、いよいよ人生の花とでも呼ぶべき働き盛りの壮年期を迎える。「さあ、あなたは何をするのも自由ですよ」と言われる。そこでふと気がつく。次はどうしたらよいだろう。漱石先生の言葉を借りるなら、Aのように生きるか、Bのように生きるか?問われるわけである。

 

ちなみにネタバレ?になるかもしれないが、この講演に結論はない。これも漱石先生の語り口がなんだか面白いので、そのまま引用する。

「ああなさいとか、こうしなければならぬとか云うのではない。どうすることもできない、実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論であります。こんな結論にはかえって到着しないほうが幸であったのでしょう」

まったく身もふたもない。ただ、前半に夏目漱石は開化がどういうものか分かっている日本人はすくない、と書いていたが、2022年現在の日本の空気からしてこの「未来に対する悲観的なムード」というのが「おじさん」問題の根本にあるのではないかと思う。つまり、漱石先生のように明文化されてはいないけれど、現代の日本人はみんなここで書かれているような悲観的な将来にうすうす気が付いているような気がする。少なくともぼくはそうだ。

 

なお、この講演で結論はない、と言い切ってはいるが、これはともすると、漱石先生が若い世代に課した宿題なのかもしれない。なので、僭越ながら最近ぼくの思っていることをつらつらと書く。

 

イギリスやドイツの人たちと仕事をしていてよく感じるのは彼らの強い自己肯定感だ。日々、「あの人たちはどうしてあんなに自信満々なんだろう」と思いながら彼らと仕事をしている。その答えの一つを端的に言えば、「Aのように生きるべきか、Bのように生きるべきか」という設問に「自発的」な答えを持っているからではないかと思う。

 

卑近な喩えで恐縮だけど、例えばぼくの仕事の中でよく遭遇するケースとして出荷の近い機械に問題が見つかった場合、AかBかの選択に迫られる。

 

A:納期を犠牲にして品質を優先する

B:品質を犠牲にして納期を優先する

 

日本人は(ぼくを含めて)ギリギリまでAかBかを決めることができない。もちろん品質も納期も守るのが一番いいに決まっているが、どこかのタイミングでどちらかを犠牲にしないといけない場面もある。しかしそれをギリギリまで先延ばしにするので、連日の深夜残業で対処した経験も一度や二度ではない。また、外発的な理由でAにしたり(クレームが多かったりした場合)Bにしたり(納期遅延が重要課題になった場合)して一貫性がない。

 

イギリスではこの問題にぶつかったとき、迷わずにAを取ってみんな定時で帰っていく。そして出荷が延びてもだれも申し訳なさそうにしていない。よくイギリス人は「日本人は働くのが好き」と表現するが、ぼくからみると彼らの方がよほど楽しそうに働いている。自分の仕事に誇りをもっているように見える。たぶんそれは、Aのように生きるべきである、という共通の認識があるからだ。(ただし、納期は犠牲になるので、しょっちゅう納期が伸びる)

 

Aであるべきか、Bであるべきか、という設問があったとき、日本人は無意識のうちに選択の理由として「外発的な」動機を語るように思う。例えば最近だと、JR東日本で、「不快だ」という理由でクレームがあってロシア語の案内表記を隠し、それに対して人種差別でないか、という抗議が来たため、JR東日本が謝罪し、ロシア語の案内表記を復活させたニュースがあった。「再び(ロシア語が不快だ、という)苦情をうけたらどうするか?」という問いに対し、

 

「(ニュースになったJR恵比寿駅は)ロシア大使館が近くにあり案内表示を必要とする人がいることや、侵攻を支持する意図はないことなどを説明する」

 

と答えたらしい。

https://www.sankei.com/article/20220419-Q45FS2NMQZPDHABNBHA7MQ2URU/

 

回答としては間違ってはいないと思うが、「外発的」な回答だと思わないだろうか。回答者の顔が見えてこないし、企業としての方針もわからない。少なくともこんなのっぺらぼうな大人が魅力的だとは思わない。ここでロシアのウクライナ侵攻とロシア人やロシア文化へのヘイトの是非について語ることはしないが、「自発的」な内容、「我々はこう思う」と言葉にしてほしかったように思う。

 

一方、本人に関していろいろと議論はあるだろうが2020年、コロナウイルスでロックダウンを余儀なくされたときのイギリスのボリス・ジョンソン首相のスピーチの内容は主に「NHS(英国の医療機関)を救うため、家にとどまってください」というメッセージだった。当時イギリスにいたぼくは、安倍元首相のスピーチと比較して、両国トップのスピーチの違いに愕然としたのを覚えている。

 

https://www.gov.uk/government/speeches/pm-address-to-the-nation-on-coronavirus-23-march-2020

 

Aのように生きるか、Bのように生きるか。人生は選択の連続だ。たぶん、Aのように生きてもBのように生きても後悔したり、批判されたりすることもあるだろう。しかし、周りが言うからAを選んだ人生よりも、自分が正しいと思ったからAを選んだ人生のほうが、より豊かな人生だと言えるのではないだろうか。同じように間違えるなら、誰かのせいにするよりも、自ら道を切り開く大人になりたいと思う。