ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

ごはんと一緒にコンテクストを食べて生きている「おいしいごはんが食べられますように」

芥川賞を受賞した本作、タイトルだけ見ると、登場人物がなにかおいしい食べ物を食べるグルメ小説、という印象を受けるかもしれない。はじめはぼくもそう思った。中身を読んでみると半分正解で、半分不正解だった。

 

確かにこの小説には登場人物がなにかを食べるシーンがたくさん出てくる。というか、ほとんど食べるシーンだ。だが、一方でこの小説はグルメ小説ではない。グルメ小説なら登場人物はおいしそうにごはんを食べるはずだが、本作の語り手となる二人のキャラクター押尾と二谷は必ずしも料理をおいしそうに食べない。

 

某漫画に出てくるキャラが、客はラーメンじゃなく、情報を食べている、というセリフを吐くそうだが、言い得て妙な表現だと思う。実際、ラーメンだけでなく、コンビニやスーパーに行っても商品のパッケージには「北海道産」だとか「こだわりの」だとか、あるいは「じっくりコトコト」など、なにかしらの情報で溢れかえっている。

 

料理をおいしくたべるために、情報は必要なのか?目の前にある料理が、かんたんに手に入るものか、それとも希少なものなのか?その違いで味に違いは出るのだろうか?

 

さらに進めれば、それを誰と一緒に食べるか?誰が作ったものか?それをいつ食べるのか?手渡されたときか?みんなと一緒に食べるのか、それとも後で一人で食べるのか?それによって意味や文脈、つまりコンテクストが変わってくる。

 

この小説を一言で表すなら、ぼくたちは「ごはんと一緒にコンテクストを食べて生きている」だと思った。コンテクストが含まれたごはんをおいしくかんじるか、それともまずく感じるか。あなたはどちらだろうか?

 

主人公は押尾という名前の女性で、職場ではなにかと頑張りすぎてしまう真面目な性格だ。彼女の先輩にあたるのが芦川という女性なのだが、押尾とは正反対の性格で、偏頭痛もちでしょっちゅう早退するし、残業も仕事も他の社員ほどはできない。

では、さぞかし芦川は職場で嫌われているだろうと思えば、そうでもない。早退や繁忙期に残業できないお詫びとして職場にお菓子を作ってきたり、先輩のおじさん社員のきわどいセクハラめいた言動も笑って許すようなところがあるからだ。

芦川と比べてはるかに残業をしているのに給料もたいして変わらないのが押尾にとって面白いはずもなく、彼女は最近転勤してきた先輩男性社員の二谷に「一緒に芦川さんにいじわるをしないか」と持ちかける。

まっとうに考えればそんな子供じみた提案は蹴ってしまいそうだが、予想に反して二谷は「いいね」と返す。押尾は二谷がどんな人間なのかわかった上でこの話を持ちかけたのだが、それは物語が進むにつれて次第にわかってくる。

 

この小説は「旧来の価値観を持ったマジョリティ派」と「それに反発するマイノリティ派」が表と裏のように描かれる。芦川をはじめとするその他大勢は「マジョリティ」で、本作の語り手となっている押尾、二谷は「マイノリティ」だ。

 

前者は旧来の価値観に根ざしている。「美味しくて栄養価の高いものを食べることは正しいことで、丁寧な暮らしをするのが人として正しいことだ」。そのためには家庭を作り、所帯を持つことが望ましい。そして後者はそんなマジョリティからのメッセージに反感を持っている。

 

例えばマジョリティは芦川から手作りのケーキやらお菓子やらをもらっても屈託なくそれを受け取る。しかし、マイノリティである押尾や二谷はタルトから下記のようなコンテクストを受け取る。

 

笑顔で差し出しているのは、黄色い桃のタルトだった。うすい水色の懐紙に載せられている。平日の夜にこんなのを作る時間があるのか。とっさに、まず、それが頭に浮かぶ。

 

では、マイノリティである彼らは「おいしいもの」が嫌いなのか、というと必ずしもそうではない。送別会に来れないお詫びとしてパートさんが買ってきたクッキーに対して、二谷はこんな反応をしている。

 

パティシエが帽子とマスクとエプロンを付けて、調理室で焼いたのだろう。そういうのを想像するとほっとする。食べる者の顔などわからない人たちが作った、正確な食べ物。コピーを取りに行くついでにパートさんの席に近寄り、「クッキーうまかったです」と声をかける。パートさんはよかったです、と答えながら驚いた顔をしていた。

 

つまり、二谷はおいしいものが嫌いなのではなく、手作りのもの、つまりコンテクストが含まれたものが嫌いなのだと推測される。

 

この感覚がわかるだろうか?それともまったく共感できないだろうか?ぼくはなんだか、彼らの気持ちがわかる。コンテクストが含まれた料理はどこか落ち着かない。作ってくれた人の顔が見えるから、「おいしい」と言うのは礼儀だし、口に合わなかったとしても残すことも捨てることも礼儀に反する。それに対して工場で大量生産されたものは余計なコンテクストが少ないぶん純粋に味だけを味わうことができるような気がする。ただ、この感覚はたぶんわからない人にはわからないのだろうな、とも思う。

 

さらに二谷は以下のような文章でマジョリティに対するわだかまりをかなり直接的に表現している。

 

ちゃんとしたごはんを食べるのは自分を大切にすることだって、カップ麺や出来合いの惣菜しか食べないのは自分を虐待するようなことだって言われても、働いて、残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、ほんとうに自分を大切にするってことか。野菜を切って肉と一緒にだし汁で煮るだけでいいと言われても、おれはそんなものは食べたくないし、それだけじゃ満たされないし、そうすると米や麺も必要で、鍋と、丼と、茶碗と、コップと、箸と、包丁とまな板を、最低でも洗わなきゃいけなくなる。作って食べて洗って、なんてしてたらあっという間に一時間が経つ。帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう。

 

二谷のこの主張は少々過激ではあるし、残業して帰ったら二十二時超えてしまうような社会がおかしい、と思わないこともない。好きなものを好きなように食べたらよろしい、と思うが、一方で、好きなものを好きなように食べることを許さない空気は確かに存在するのではないだろうか。「毎日ちゃんとしたものを食べないと」という強迫観念は呪いのように日本人全体を縛り付けているように感じる。

 

この作品に惹かれたのは料理という主題を通してマジョリティに対して疑問を投げかけているところだ。技術が発達して様々なことができるようになっている。冷凍食品やインスタント食品はおいしくなっているし、栄養価の高い料理を冷凍で送るサービスだってある。一方で選択肢がこれだけ増えたのに、我々の暮らしはいっこうに楽にならないし、楽をすることが悪だという価値観がある。料理について言えば、インスタント食品よりも手作りのほうが偉いような風潮がある。手作りでも化学調味料を使わずに出汁をとるほうがより偉い。これはいくらでもエスカレートすることができる。有機野菜を使うかどうか?肉や魚を食べないビーガン食か?油を使わないローカロリーな食事か?食事には多くのコンテクストが含まれている。我々が「おいしいごはん」を食べなくてはならないのはいったい何故なのだろうか?本作は食事を通して一つの新しい視点を開拓したように感じた。

 

※この作品が芥川賞を取った際、作品自体にコンテクストが付随されてしまったというのも非常に興味深い。この作品はジェンダーに関する作品なのか?

たぶん著者自身はジェンダーに関する作品ではないと否定したいと思うのだけど、あらゆる点でジェンダー的に読める作品だと思うし、非難されているほどリンク先の質問が的外れだとは思えない。(非難している人の何割がこの作品を読んだのだろうか?)興味深いトピックなので、文学表現とジェンダーについての文章もまた機会があれば書きとめておきたい。

https://hochi.news/articles/20220721-OHT1T51006.html?page=1