ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

「ファウスト」の「渇き」はいかにして満たされ、あるいは満たされなかったか

身も蓋もないまとめ方をするなら、「ファウスト」とは、「悪魔と契約してなんでもできるようになった老人が色気づいて美女を落とす」話だった。そうやってまとめてしまうと「結局のところ男は性欲からは逃れられない」みたいな単純な話に矮小化されてしまいそうだけれど、もちろんここで描かれているのはそう単純な話ではない。(と思う)

 

この作品で表現されているのはファウストという男の飽くなき探究心であり、強烈な「渇き」だ。そして彼を突き動かしている行動原理は、「他者と一体化したい」という欲求であるように感じた。この欲求はおそらく世界中普遍的に存在するものと思うのだが、正確に表す言葉を知らないので「同一化幻想」と呼びたい。

 

「同一化幻想」は主に恋愛の分野で見られると思う。男性が美しい女性を、女性が経済的に優れた男性を恋愛対象として好ましく感じるのは相手と同一化して自分の価値が上昇するように感じられることが要因の一つとしてあるだろう。パートナーの容姿が美しかったり、社会的に成功していたりしても、本質的に自分の価値は上がったり下がったりしないが、「同一化幻想」はそれを許さない。(パートナーだけでなく、家族にもそれが当てはまるだろう。息子や娘、父親、母親、兄、姉、弟、妹……)

 

ファウストはその「同一化幻想」を極端なまでに誇張した人物だと感じた。彼は世界で最も優れた存在を目指している。だからこそ彼には美しく時間を超越した女神であるヘレネが伴侶として必要だった。そして破滅に至る道程で、彼は世界と同化しようとした。そのあたりの所感を詳しく書いていきたい。

 

 

 

 

改めて紹介すると、「ファウスト」はドイツの小説家、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの書いた戯曲である。

冒頭、神に謁見した悪魔メフィストフェレスは「神の教えに忠実な男」とみなされているファウストを堕落させられるかどうか神と賭けをする。もしもファウストを堕落させることができたら、メフィストフェレスは彼の魂を手に入れる。

下界に降りたメフィストフェレスは、この世ではファウストの下僕として持てる魔力のすべてを奉仕するが、もしもファウストメフィストフェレスの与える愉楽に満足したら直ちに彼を屠り、その魂をもらいうけ、あの世で下僕として使役する契約を持ち掛けた。二人の間の合言葉として「Verweile doch! du bist so schön!」(留まれ! お前は余りに美しい!)が定められ、ファウストがもしもその言葉を放ったら、それをトリガーとして契約は遂行される。

 

ファウスト博士がどういう人物かを表すのに、以下のセリフがある。ぼくはこれをメフィストフェレスと出会う以前の彼の状態を表現したセリフだと考える。

 

ファウスト「ああ、悲しいかな。哲学、法学、医学。果ては神学まで間違い無く努力して研究し尽くした。さて、その結果は浅はかなバカの出来上がりだ。賢くなんてなれないのだ。学士や博士となって何十年もやってきて、弟子の鼻を縦横無尽に曲げてやった。結果、人間は何も知ることが出来ないということが分かった」

 

ファウストは本質的に飽くことを知らぬ探究心を持った男であり、ソクラテス風に言うならば、「優れた魂の持ち主」になりたい、という崇高な願いがあるようだ。(また、このセリフから、かなりソクラテスに似た傾向の考え方を持った人物であることもわかる)また、ファウストメフィストフェレスに、「いつか怠けて横になるのを望むようなら、それは人生の終わりと等しい」として彼との契約を受け入れている。つまり、そんな私がお前ごとき悪魔の魔法で満足するはずがない、という考えだ。

 

その後ファウストは魔女のもとで怪しげな薬を飲まされ、「すぐにどんな女でもヘレネのような美女に見える」ようにされてしまう。そして偶然出会ったグレーチェンという若い村娘をたぶらかし、彼女との間に子供までもうける。ファウストはおそらく薬のせいもあるだろうが、メフィストフェレスに対して「もし今夜、私があの甘美な娘を抱けなかったら、お前とは今夜限りで絶交だ」とまで言いのけるくらい強くグレーチェンを求めた。

 

結局グレーチェンとは悲劇的な別離を迎え、ファウストは次の伴侶として女神ヘレネを求める。ファウストの「同一化幻想」は以下のセリフにあらわれている。

 

ファウスト「ならば彼女は時間とは無縁なのですね! (中略)私もこの唯一の命を賭ければ、憧れの彼女と一緒になり得るでしょうか? 崇高な神に等しい、あの永遠に気高い彼女と対等になれるでしょうか? 私は以前、彼女の姿を見ました。そして今日も見たのです。あの素晴らしく愛らしい姿と魅力的な美の虜へならざるを得ません。今、私の心は険しく押し潰されそうなのです。彼女を手に入れられなければ生きることが出来ません」

 

完璧主義的な老人が若く美しい対象に対して激しく「同一化幻想」を抱く話として、トーマス・マンの「ヴェネツィアに死す」を連想した。マンもゲーテもともにドイツ語圏の作家である。二作を比べてみて、少々深読みしすぎかもしれないが英語にはないドイツ語特有の言語文化の違いが見てとれたように感じた。

 

ぼく自身ドイツ語初学者だが、初学者であってもかなり早い段階で英語との違いを感じる点が一つある。それは二人称代名詞の使い方だ。どういうことかというと、英語でyouにあたる言葉がドイツでは2つある。duSieだ。duは親称と呼ばれ、親しい間柄同士で使われるが、Sieは敬称と呼ばれ、主に初対面の大人同士で使われる。

 

つまりこうとも言い換えることができるかもしれない。ドイツ人は無意識のうちに、あるいは意識的に仲間(同一化された存在)とその外にいる人間とをわけている。先程引用したファウスト博士のセリフだが、かなりの頻度で「一緒になる」という言葉が出てくる。これは相手と同化することを示しているのではないだろうか。

(余談ではあるが、ドイツ語だけでなく日本語も「同一化」を強く意識する言語だというのは「ことばと文化」の書評で以前書いた)

 

他者と同一化したい、という欲求はおそらく誰にでもあるように思うが、それを極大していくことによってその問題点も明らかになる。「同一化」とは個人を認めないこととほぼ同義である。相手と同化してしまった場合、相手はこう考えて行動するという視座がすっぽりと抜け落ちることになる。たとえばファウストのような人間にとって恋愛は相手に塗り替えられるか、相手を塗り替えるか、そのどちらかしかない。

 

ファウストは恋愛の相手だけでなく世界とも同一化しようとした。彼は自分の領地を持ち、そこで何百万人の民のために土地を拓く幻想に取りつかれる。彼の死の直前のセリフは以下である。

 

ファウスト「山の麓の沼が私の仕事の成果を汚染している。腐った水溜まりを除去することが私の最後にして最高の仕事だろう。何百万もの民のために新しい土地を拓いてやろう。安全は保証出来ないが自由に住める。平野は緑で肥沃である。(中略)ここで人生を費やすモノこそが、老いも若きも充実した歳月を過ごすのだ。私はそう言う人の群れを見たい。自由な土地の上に自由な民が生きるのだ。そして私は瞬刻に向かってこう言いたい。『留まれ! お前は余りに美しい!』と。私の遺した功績は、未来永劫、地上に残るだろう。こういう最上の幸福を夢想して現在の至上の瞬間を楽しむのだ」

 

ぼくが着目したのは「ここで人生を費やすモノこそが、老いも若きも充実した歳月を過ごすのだ」という一文だ。裏を返せば、私の領地以外で過ごすモノは決して充実した歳月をすごすことはできない、と言い換えることもできる。ファウストは結局のところ彼自身のそうした傲慢さから逃れることができなかった。

 

相手に塗り替えられるか、相手を塗り替えるか?「同一化幻想」の危険性は先の大戦でも明らかになったように思う。その最悪の結末とはすなわちどちらかの相手を根絶やしにするまで止まらないあの独ソ戦に見られるような「絶滅戦争」やユダヤ人を根絶やしにしようとしたホロコーストだ。「ファウスト」はそうした人間の持つ崇高さと邪悪さの両面を表現した物語であったのだと感じた。