ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

神のいない世界でどう生きるのか 神の子どもたちはみな踊る

子どものころ、一輪車の練習に父親が付き合ってくれた。
早朝、まだ日の登らないうちに一輪車をトランクに詰めて近所の広場まで運転してくれた。
とにかく乗れるようになるまで毎朝その特訓は続いた。父は文句を言わなかったし、ぼくも弱音は吐かなかったと思う。ただ粛々と毎朝5時に起きて一時間ほど練習する日々は毎朝続いた。

父が練習に付き合ってくれたおかげで、春が来るころにはすっかり一輪車に乗れるようになった。大人になってから一輪車に乗る機会などない。逆上がりだってしない。野球のフライを上手に捕れなくなって何の問題にもならない。

何のために小学生が一輪車に乗れるようになる必要があるのか今でも疑問だけど、ともかく今でもけっこう上手に一輪車に乗ることができる。

 

この短編集のなかで1番好きなのは表題作の「神の子どもたちはみな踊る」だ。
この短編連作は「地震」をテーマにしていて、その中でも「神の子どもたちはみな踊る」は「新興宗教」をひとつのテーマにしている。

 

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 

 

 

簡単なあらすじは以下の通りだ。

 

最悪の二日酔いのなかで目を覚ました主人公、善也は、新興宗教に傾倒する母と二人暮らしだ。生物学上の父親は産婦人科医で、彼は「専門家として完璧な避妊」をしたが、それでも善也の母が身ごもったのを知り、これは自分の子どもではない、と善也を認知しなかった。
母は絶望し、自ら命を絶とうとするが、新興宗教の信者が彼女を助ける。話を聞いた信者は、善也は「お方」の子どもで、尊い存在なのだと説く。それから母は新興宗教にのめり込み、善也は「神の子ども」としてシングルマザーの家庭で育てられる。
大人になった善也は会社からの帰り道、電車で母から聞いていた生物学上の父親と特徴の一致する男性を見つけ、彼を尾行する。 

 

世界的に宗教離れが加速しているのだそうだ。
日本人は約50パーセントが無宗教で、世界的に見てもこれはかなり多い。
例えばアメリカは22パーセントが無宗教で、白人の場合は38パーセント、アジア系は39パーセント。しかも無宗教者は年々、徐々に多くなっている。

なぜだろう?

宗教は、自分ではどうしようもないものに対して、どうやって折り合いをつけるか、というのがそもそもの根本にあると思う。
個人的な見解だけど、白人やアジア人というのは、人種のなかで見ても比較的「裕福」な人種に当たる。
明日のご飯にありつけるか不安に感じる人はこの人種のなかでは少ないのではないか?

 

主人公の善也はフライが上手く取れなくて神様にお願いしていたが、子供の時の彼にとってはフライを落とすか、うまくとれるかは大問題だった。
子供の頃のぼくにとって、一輪車に乗れるかどうかが大きな問題だったのと同じだ。

大人になるにつれて、大きな問題はどんどん少なくなる。日本のように裕福な国の中にいるとなおさらだ。

じゃあ、全てが自分の思い通りになるか?衣食が足りさえすればそれですべてOKなのかというと、そうではない。

 

例えば「死」。
無宗教でも、親しい人が亡くなればお葬式を挙げる。それは、亡くなった人のために挙げるというよりも、むしろ生きている人が大切な人の「死」とどうにかして折り合いをつけるために挙げるのだと思う。

善也がフライを取れなかったとき、必要だったのは祈りではなく父親だったのだろう。血肉を持ち、眠気と戦いながら練習につきあってくれる現実の父親だ。

自分ではどうにもならない現実にどう向き合うか?
それがこの小説のテーマであるのではないかと感じる。完璧な答えなどは存在しない。

 

公園に行って猛練習すればフライは取れるようになっただろう。でも、フライを捕るよりももっと複雑な問題が世の中にはゴロゴロ転がっている。

こうすれば絶対に救われるという答えはない。
答えが存在しないからこそ、神の子どもたちはみな踊るのだろう。