ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

風を入れる必要はなかったか? 82年生まれキム・ジヨン

一読して心にもやもやが残った。言ってることはわかるけど、こんなにもやもやするのは自分が男だからなのだろうか?何か飲み込みきれない気持ちが残り、素直に読めない。本書の解説を読んでそのもやもやの正体がおぼろげながらわかった。これは問題のある本だと思う。差別を語るうえで絶対にしてはいけないことをしている。それは、「記号化」だ。
「ママ虫」は唾棄すべき卑劣な言葉だが、それを言った心無い「男性」とこの本は本質的に変わらないのではないか? 人は記号に対してはどこまでも残酷になれる。いかに温厚で優しい人間であっても、記号に対しては冷酷になることができる。

文学の使命は記号を異化して個別の世界を構築することではないのか? これまで単なる記号だと思っていたものを咀嚼して展開させ、読者に分かる形で提示することではないのか? この本はあえて文学性を排除しているが、それはなぜか? 記号化の結果、現実よりも問題を単純にしてしまったことについて、ぼくは異を唱えたい。それではヘイトと変わらないと。

 

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 

 

 

初めに立場を明らかにしておきたい。ぼくは男女は社会の中でも家庭の中でも平等であるべきだと思っているし、男性にせよ女性にせよ、各自尊厳を傷つけられることなく気持ちよく過ごすことができる社会こそが理想だと思っている。
だから、この本を読んでもちろん女性差別の問題について心を痛めたし、男性として身につまされる部分もあった。これは韓国の話であって日本社会には関わりのないことだ、とも思わない。程度の差こそあれぼくの身の回りでも起きていることだ。とくに、男児が厚遇され、女児は冷遇される、というのに心当たりがある。

ぼくには妹がいる。小学生の頃、両親は持ち家を父方の実家の近くに建てた。ぼくたち兄妹はそこで晴れて自分の部屋を与えられたのだが、その際に日当たりがよくエアコンのある側の部屋がぼくに与えられ、妹は西日のさす、エアコンのない側の部屋が与えられた。おそらくは経済的な事情から一台しかエアコンが設置できなかったのだろう。ぼくと妹の部屋の壁は引き戸になっていて、暑い日や寒い日はそこを開けてエアコンの風を妹の部屋に入れる。両親は否定するだろうが、ぼくは長男だから優遇されたのだろうと思う。これも立派な男女差別だ。
でも、ぼくに選択の余地はなかった。まだ小学生だったぼくは、「お金を出すから妹の部屋にエアコンをつけてあげてほしい」などと言えようはずもない。しかし、これが不公平だというのは気がついていた。だから実家に暮らしていた当時、エアコンをつけているときに一度でもその戸を締め切ったことはない。どんなに妹と喧嘩して口も聞きたくない、と思ってもその扉だけは閉ざさなかった。

繰り返しになるが、ぼくは男性も女性も気持ちよく暮らしていくことができる社会が理想の社会だと思っている。そして、今現在、かつてに比べれば男女の差はなくなってきたとはいえ、それでも完全に男女同権になったとは思わない。確かにそうは思うのだが、それでもこの本はほんとうに男女が同権になることを目標として書かれた本なのだろうか? もしそうだと言うならば、どうしてこの本に記号としての「男性」は出てきても、生きたキャラクターとしての「男性」が出てこないのか? キム・ジヨンの夫を除いた全ての男性キャラクターに名前がないのは、ミソジニー女性嫌悪)に対するミラーリングだと解説で述べられており、まさしくそのとおりだと思う。「実際には嫌な男性よりもいい男性のほうが多い」というセリフはあったが、そんな男性はこの小説の中には出てこない。「男性」は記号としての「男性」であり、中立の立場であるべき語り手の男性医師でさえ女性差別主義者であることがラストで明かされる。この小説の意図は、どこにあるのか? どこかに読者を向かわせようという意図があるのか? 男女が憎しみ合うことか? いや、そうではないだろう。そのような意図すら本書からは感じられない。きっとこの本は問うているのだ。これを読んで、あなたが未来を考えるべきだと。しかし、ここで描かれた記号としての「男性」は、かつて読者を苦しめたレイシストの「男性」であり、「女性」だ。女性に理解を示さず、悪気なく女性を苦しめる総体としての人々だ。これは果たしてフェアだと言えるのか? 作者から未来へのビジョンが提示されず、読んだ人間がビジョンを描きなさい、というわりに情報の非対称性が起こっていないか?

記号化の最大の弊害は、敵を見つけたら、敵を殲滅する以外の手段を考えなくなることだ。「ママ虫」とキム・ジヨンを呼んだ「男」は確かに卑劣だが、彼をそこまで追い込んだものは一体なんなのだろう?

例えば、日本でも東京医科大学で、男子の点数に下駄を履かせて女子を不合格にした事件があったが、これを差別主義者の理事会が悪いと、悪者を決めてしまえば議論はそこから先には進まない。女医を生み出したくないのは何故かといえば、医者が慢性的に不足しているからだ。患者が急変すればすぐさま病院に呼ばれ、当直や長時間勤務に耐えることができる体力が求められ、医療ミスでもあればすぐさま社会的に追い詰められる。女性の場合、たとえば出産で現場を離れたとき、組織としてその穴をリカバリーできる体制が整っていなければ職場復帰は難しい。だから現場を離脱しない、家庭よりも仕事を優先してもらえる(と期待されている)男性医師のほうに時間もコストもかけて教育する方が好ましいと判断したのだろう。確かに問題の解決方法として今回の不祥事は言い逃れのできない社会的信用に対する裏切り行為だったが、今回の問題の本質は医師の労働環境ではないだろうか?  そしてこの問題も決して一枚岩ではなく、国民皆保険制度や高齢化など、が複雑に絡み合って発生している。

韓国社会においても、1500ウォンのコーヒー(日本円で150円程度)を幼い子供と公園で飲むささやかな楽しみすらやっかむような心情にさせる余裕のなさは一体どこから来るのだろう? 若者の失業問題、熾烈な学歴主義、徴兵制度など、韓国社会が持つ問題の複雑さは想像に難くない。

人間は記号に対してはいくらでも残酷になれる。「ユダヤ人」や「黒人」や「女」、あるいは「男」。記号にすれば、その人間の個性は消えて概念だけが残る。その結果生まれた惨劇は、歴史を紐解けばいくらでも知ることができる。
男性を記号化すれば怒りの矛先ができたことで熾烈な感情が生まれるかもしれないが、男女で争っていてどうなるのだろう? 記号に対する怒りで、問題の本質が曇ってしまえば、それだけ解決は遠のく。本当に問題を解決したいのならば、ミソジニーにもミサンドリーにも陥らずにフェミニズムを語るべきではないだろうか?
男性は女性の敵ではないし、女性は男性の敵ではない。対立しているような場合ではないのではないか。そう思えてならない。