ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

引き伸ばす者への憎悪 キャッチャー・イン・ザ・ライ

ギリシャ神話のなかで、「引き伸ばす者」という意味のプロクルステスという強盗が登場するエピソードがある。プロクルステスは通りがかった人に「休ませてやろう」と言って鉄の寝台の上に乗せ、相手の体が寝台よりはみだしたらその部分を切断し、寝台の長さに足りなかったら逆に体を引き伸ばす拷問にかけて殺したという。

 

プロクルステスの寝台」とはそのエピソードから転じて「無理やり基準に一致させる」というような意味を持つようになった。よく考えてみれば、体を切られたり、引き伸ばされたり、ということはわれわれが社会生活を営むことで日常的に起こっているのではないか、とぼくは思う。本当は帰りたいのに仕事が終わらずに残業するのも、なければいいのに、と思う習慣を今でも続けているのもそうだ。きっと生きていくなかで体を切られたり引き伸ばされたりした経験のない者などいないのではないだろうか?

 

それが一番顕著なのは幼少期ではないかと思う。それまで親は欲求のすべてを速やかに満たしてくれた。だが、子供の欲求が複雑に細分化していくにつれ、親は子供の要求を満たすことが難しくなっていく。また、子供がいつか社会に出て困らないように社会のルールを教える必要もある。嘘をついてはいけない、挨拶しなくてはならない、公共の場所で騒いではならない。

 

初めて読む人は、ホールデンの独特な、攻撃的な語りにまず面食らうのではないだろうか。彼は大人の世界のすべてを憎んでいるように思える。彼の怒りの源は一体なんなのだろうか?
ぼくは、彼の怒りの源は「引き伸ばす者」への憎悪ではないかと感じた。
具体的に引用しながら見ていきたいと思う。

 

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

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変わるもの変わらないもの シュガー・ラッシュオンライン

 

シュガーラッシュは前作から大好きで、続編となるこのシュガーラッシュ オンラインはずっと前から楽しみにしていた。シリーズのファンだということもあるけれど、予想を裏切らない最高の出来ばえだったと思う。そこで描かれていたのは、前作と変わらない普遍的な友情の姿だった。しかし、本作で特に素晴らしく現代的だと思ったのは、前作から変わったところだ。

 

それは結論から言えば明確な「悪人」がいないということ。ネタバレになるので詳しくは言えないが、前作の世界の中では悪意を持ったキャラクターが倒すべき敵として君臨していた。しかし、舞台をインターネットに移した本作にはそれがいない。

 

では、壊し屋ラルフと天才レーサー ヴァネロペの堅固な友情を脅かすような存在は出てこないのか?というと、そうではない。それは意思も人格も持たないが強力で、時として現実世界の我々も手を焼く「インターネット」そのものではないかと思う。

 

 

映画「シュガー・ラッシュ:オンライン」の感想 #シュガラお題


 

 


Facebookに、TwitterInstagramYouTube
この中であなたが利用しているものはあるだろうか?頻度や深さは異なれど、多かれ少なかれそれらを閲覧したり、あるいはどれかのメディアから何かを発信したことはあるのではないだろうか?

 

何が人をこれらのSNSに駆り立てるのだろうか?
「ふん、そんなSNSなんて興味もないし、これからアカウントを作る予定もないよ!」という人も、これらのメディアが何故これほど爆発的な利益を生み出すか考えてみたことはあるのではないだろうか?そのくらい無視できない存在感をSNSは持っている。

 

本作でどうしてもお金が必要になったラルフとヴァネロペはバズチューブという動画投稿サイトで「いいね」にあたる「ハート」を集めて換金しようと四苦八苦する。もともとレトロゲームの「フィックスイットフェリックス」の悪役でかつて人気を誇ったラルフは、人気動画の真似をすることで視聴者から「新しい」と思われ、一躍スターダムにのし上がる。この場合ラルフを駆り立てたのは金であり、金が必要だったのは親友のヴァネロペを救うためだ。しかし、そんな固い絆で結ばれた友達同士の二人に暗雲が立ち込める。

 

ラルフの動画はあっという間に飽きられる。ネットでバズるためには常に新しいものが必要だ。ラルフはそのために趣向を凝らしてどんどん新しい動画を投稿し続ける。だが、その執拗さから一部のネットユーザーの不興を買い、悪口を言われるようになる。
一方で、「展開の読める、遊び尽くしたコースしかないシュガー・ラッシュの世界」にうんざりしていたヴァネロペは、インターネットの常に変化に満ちた世界に強く心を惹かれるようになる。


絶えず変化していくこと、しかもとんでもないスピードで。それがインターネットの一つの側面である。変化を好まないラルフと、常に新しいものを求めるヴァネロペは考え方の違いから対立するようになる。

 

何故我々はSNSを見たいと思い、何故一部の人たちはSNSから情報を発信したいと思うのか?

 

昨年アメリカに長期出張していたとき、半地下の古いアパートに住んでいた。そのアパートは会社の借り上げで、同僚は食べ物を開封したままにするな、と注意してくれていたのだが、その日うっかり朝食べるためのシリアルの袋を開けっぱなしにしてしまった。すると、シリアルの砂糖におびき寄せられたアリが大挙して押し寄せ、買ったばかりのシリアルを駄目にしてしまった。

 

一方で出張中の余暇を利用してホースシューベンドというアメリカの景勝地に出かけたことがある。そこはアリゾナ州の砂漠の中にある、コロラド川が馬の蹄鉄のような形に穿入蛇行している場所だ。その美しい光景を一目見るために世界中の旅行者が砂漠の中を一列になって歩いている様をみて、ぼくは台所のシンクに行列を作るアリを連想した。あの、シリアルの砂糖に誘われたアリたちだ。

 

アリは砂糖に誘われて行列を作っていた。では、この暑い砂漠の砂を踏みしめながら一心にスマホをかざしている我々は一体何に誘われてここにいるのだろう?

 

彼らはスマホでホースシューベンドの写真を撮り、SNSにアップしていた。その行為を、目立ちたがり屋だとか、リア充だと思われたいのだ、とか愚かな承認欲求の現れだ、と感じることもできるだろう。でも、ちょっと視点を変えてみれば、ひと昔前はきっとスマホではなくフィルムカメラでこの風景を誰かが撮っていた。さらにカメラのない時代は絵を描いて形に残していたのかもしれない。それらは人々の噂の的となり、今では世界中から観光客が押し寄せるようになった。

 

我々がなぜSNSをするのか。
それは、人間の根源的な欲求に根ざしているのではないかと思う。だれかにこの感動を伝えたい、分かち合いたいという欲求だ。アリは砂糖に集まるが、人は共感の元にあつまる。換言すれば、誰かと心を分かち合うために集まるのだ。

 

確かにインターネットは目まぐるしいスピードで変化を続けている。それを楽しいと思うか、それとも恐ろしいと思うかは人によって異なるだろうし、どちらの側面も厳然と存在している。シェアしたいと思う感情が美しいもの、優れたものであれば問題ないが、実際には悪しきもの、誰かを傷つけてしまう恐れのあるものだっていっぱいある。そしてそれは渾然一体となって分離することが難しい。発信する人も、その情報をシェアしてしまう人も、「悪意」はない。シュガー・ラッシュ オンラインに悪者がいないのも、そんなインターネットの一側面に起因しているのではないかと思う。感情が共感できるものであれば、その感情が良きものであれ、悪しきものであれ、世界中に拡散されてしまう。インターネットにはそういう危険性がある。

 

では、そうした強力で危険なツールを扱う我々はどうしたらいいのだろうか?
やはりそれは変わらないものの価値を知ることではないだろうか。ディズニーピクサー映画を安心して見られる要素の一つとして、必ずあのラルフとヴァネロペが固い絆を取り戻すであろうという確信がある。二人はこの危機を、二人なりのやり方で乗り越えていく。では、それはどうやって?

それはぜひ劇場で見てほしい。あっと驚くような結末ではないかもしれない。でも、時を経ても変わらないものの価値が、この映画にはあるのだと自信を持っておすすめできる。

 

 

 

周回軌道上の衛星たちは気の毒なライカの夢を見るか 「スプートニクの恋人」

なぜ、宇宙飛行士もロケットも人工衛星も出てこないこの小説の題名が、「スプートニクの恋人」なのだろう?この小説を読み解く上でこれ以上の問いはない。そこから始めたいと思う。

世界初の人工衛星が宇宙に向かって打ち上げられたのは、1957年のソ連だ。一連の計画には「旅の道連れ」あるいは「付属するもの」という意味を持つスプートニクという名前がつけられた。
その後、1961年、ソ連ボストーク1号ユーリ・ガガーリンらを乗せて初の有人飛行に成功し、1968年、アメリカのアポロ11号ニール・アームストロングらを乗せて月面着陸に成功する。

普通宇宙開発を話題にするとき、我々はこのように輝かしい功績について語りがちだ。
しかし、もちろんその功績の裏には身を結ばなかった努力や尊い犠牲もある。Wikipediaによれば、宇宙開発関連の事故で宇宙飛行士や整備士、近隣住民などを含めていままでに少なくとも71名が死亡している。物語の冒頭で解説されているライカ犬人工衛星スプートニク2号に乗って162日間地球の周回軌道上を周り、その後大気圏に再突入して消滅した。

なぜこの小説の題名が「スプートニクの恋人」なのか?
それは、村上春樹が宇宙開発の輝かしい側面ではなく、闇の部分の一つであるあの気の毒なライカ犬を引用したことにヒントがあるように思う。

 

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

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