世界はぼくたちの行動でできている 若者をやめて大人を始める
大人っていったいどういう存在なんだろう?
二十歳を越えたら人は自動的に大人になるんだろうか?選挙権が与えられたとき、お酒が飲めるようになったとき、人は若者から大人になるんだろうか?社会的にはそうかもしれないが、なんだか腑に落ちない。
だったら、自分の生活費を自分で稼ぐことができるようになったら大人だろうか?
あるいは、初めての性交渉を経験したら?もしくは結婚し、子どもができたら?
正直に言って、どれもしっくりくるものがない。
二十歳を過ぎて定職についていても子供みたいな人はたくさんいるし、未婚でも大人っぽい人はたくさんいる。
若者をやめて大人を始める、という本を読んで、ふと大人の定義について考えた。
筆者曰く、誰かの世話をする楽しさに目覚めた人が大人なのだそうだ。彼の場合、結婚して子どもができたのが契機となり、若者から大人になったと記されている。
子どもができると人生観が変わる。そう語る人は大勢いる。既婚者の中には口を酸っぱくして独身者に結婚して家庭を持てと言う人もいる。
じゃあ、子どもを持たない限り人は大人にはなれないのだろうか?
そういう意見の人もいるだろう。でも、ぼくはそうは思わない。それは問題の本質ではないと思う。
再び初めの問に戻る。大人って一体どういう存在なんだろう?
それに対するぼくの答えはこうだ。「世界が自分たちの行動でできていると自覚している人。そういう人間こそが大人だ」と。
このエントリーでは、ぼくの転機になった出来事について書こうと思う。
ぼくの転機とは、すなわち、入社2年目で行ったはじめての海外出張だ。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?
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翻訳で死なない小説とは? カーヴァー「羽根」(「大聖堂」より)
翻訳本のことを話すときにときおり話題になるのが、「翻訳本は原文から翻訳するときにその文章の本来の魅力は損なわれてしまう。だから、その小説の真髄を味わうには原文のままで読むしかない」というもの。
その主張にも一理はある。
英語圏でしか伝わらない表現、文化的な背景を知らなくては連想できないパラフレーズ、その言葉独自の流れるような韻律の美しさは翻訳によってある程度損なわれてしまうし、翻訳者がどれだけ原文の雰囲気を保持できるかは翻訳における大きな問題だ。
それでは、日本人なら日本語で書かれた物語だけを読めばよくて、英語で書かれた物語は一部の英語が堪能な人だけが愉しめばよいのか?というと、それもちがうような気がする。
「ノーエクスキューズの潔さ」というのがカーヴァーの最大の魅力だ。これはさじ加減の非常に難しい作業だ。ゴールまで手を引っ張ってしまえば、陳腐になる。すべてを言葉で説明してしまったら、小説を読み、自ら想像する喜びは損なわれるだろう。
しかし、逆にうまく目的地にランディングしないうちに手を離してしまえば、読者は突き放されたような気持ちになる。「これを読んで一体何を感じればよいのか?」と読者は路頭に迷ってしまうだろう。この短編集の中で一番そのバランスが優れているのが「羽根」だと感じた。
以下、「大聖堂」の中の「羽根」という短編についてレビューを書こうと思う。
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神のいない世界でどう生きるのか 神の子どもたちはみな踊る
子どものころ、一輪車の練習に父親が付き合ってくれた。
早朝、まだ日の登らないうちに一輪車をトランクに詰めて近所の広場まで運転してくれた。
とにかく乗れるようになるまで毎朝その特訓は続いた。父は文句を言わなかったし、ぼくも弱音は吐かなかったと思う。ただ粛々と毎朝5時に起きて一時間ほど練習する日々は毎朝続いた。
父が練習に付き合ってくれたおかげで、春が来るころにはすっかり一輪車に乗れるようになった。大人になってから一輪車に乗る機会などない。逆上がりだってしない。野球のフライを上手に捕れなくなって何の問題にもならない。
何のために小学生が一輪車に乗れるようになる必要があるのか今でも疑問だけど、ともかく今でもけっこう上手に一輪車に乗ることができる。
この短編集のなかで1番好きなのは表題作の「神の子どもたちはみな踊る」だ。
この短編連作は「地震」をテーマにしていて、その中でも「神の子どもたちはみな踊る」は「新興宗教」をひとつのテーマにしている。
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