ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

自由の正体 「1984年」

全体的に重苦しくて救いがないし、ところどころで偏執的とも言える思想の垂れ流しのような文章が羅列されていて実によみづらく、眠気を催してくるものの、この小説のことは昔からずっと好きだった。今回も読みすすめるのはけっこうな苦行ではあったが、「今」この小説を読むことは価値のあることだと感じた。

それは、コロナ禍で今、とくに日本で起きていること、そして、コロナ以前から日本で蔓延している事象がこの作品と分かちがたく結びついているのではないかと思うからだ。ある意味でずっとぼく自身が感じてきた日本での生き辛さがこの話に凝縮されていた。

 

 

 

 

 

この本で描かれる世界が漠然とディストピアであるというのは直感的に理解できるのではないかと思う。強力な一党独裁体制が敷かれ、国民は常にテレスクリーンによって監視されている。仕事は党のために事実を改ざんすることだからやりがいなんて皆無だし、仕事が終わったあとに飲むのは全然美味しくなさそうなヴィクトリージンだ。灰色がかったピンク色のシチューなんて想像しただけで食欲が無くなりそうだ。

 

この世界が辛いのは自由がないからだろう。それは、職業を選択する自由であり、好きな人と過ごす自由であり、好きなものを食べたり飲んだりする自由である。なぜここまでウィンストンの世界には自由がないのか、と考えたときに気がついたのは、逆説的であるが、それは法律がなくなったからではないか、と思う。

 

序盤に「法律がなくなっているので何事も違法ではなくなった」とあるが、それでは禁止されていることがなくなったのだからさぞかし自由だろう、と思うが事実はその反対だ。

 

法律は当然ながら破ってはいけないことが書かれているものなので、我々の自由を制限する。例えば、人を殺してはいけない、盗みを働いてはいけない、人を騙したり、財産を奪ってはいけない。しかし、裏を返せば、それさえ守っていれば自由、ということなのである。

 

なぜ法律がなくなったか、といえば、後で自由に歴史を改竄して党の都合のいいように作り替えてしまうことができるからだし、都合の悪い人間を党の判断で粛清できる。
これにより党とビッグブラザーは不敗の完全性を手に入れることができる。

 

新型コロナの問題になるが、イギリスでは理由なく外出している人間は逮捕する、という政策が取られ、それと同時にスーパーマーケットとドラッグストア以外の小売店の一時停止命令と従業員の賃金の8割を国が負担、ソーシャルディスタンス2メートルなどが施行された。


御存知の通り日本は外出自粛要請にとどまっていた。結果として「自粛警察」などという言葉が流行り国民同士が相互に監視し合うようになった。やってはいけないことが明文化されていなければ、その監視はエスカレートする。日本では、ニュースを見ると、まさかそんなことで?というようなことで嫌がらせを受けたりしている。たとえば夜店に電気がついていただけで嫌がらせの張り紙をはられたレストランのニュースがあったり、感染者が出た家に石を投げ込んだ人がいたり、目を疑うようなニュースが飛び込んでくる。

 

しかしそれはコロナが明確にあぶり出しただけで、それ以前にも、明文化されていないルールが日本にはたくさんあったように感じる。たとえば定時が17時でも17時に帰れなかったり、職務規定には含まれていなくてもやらないといけない仕事があったり、忖度しないといけない事柄が多すぎる。

 

法律とはやってはいけないリストであると同時に、人間とはこう生きるべきである、という指標のようなものであるべきなのかもしれない。「1984年」は、古代ローマの時代から連綿と受け継がれてきたこうした法治国家に不可欠な法律という「人類の安全装置」とでも呼べるものを取り払った後の世界を描いているものなのかもしれない。そしてそれは現代の日本でもある種通じる生きづらさとなっているのではないだろうか。