ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

翻訳で死なない小説とは? カーヴァー「羽根」(「大聖堂」より)

翻訳本のことを話すときにときおり話題になるのが、「翻訳本は原文から翻訳するときにその文章の本来の魅力は損なわれてしまう。だから、その小説の真髄を味わうには原文のままで読むしかない」というもの。

その主張にも一理はある。
英語圏でしか伝わらない表現、文化的な背景を知らなくては連想できないパラフレーズ、その言葉独自の流れるような韻律の美しさは翻訳によってある程度損なわれてしまうし、翻訳者がどれだけ原文の雰囲気を保持できるかは翻訳における大きな問題だ。

それでは、日本人なら日本語で書かれた物語だけを読めばよくて、英語で書かれた物語は一部の英語が堪能な人だけが愉しめばよいのか?というと、それもちがうような気がする。

「ノーエクスキューズの潔さ」というのがカーヴァーの最大の魅力だ。これはさじ加減の非常に難しい作業だ。ゴールまで手を引っ張ってしまえば、陳腐になる。すべてを言葉で説明してしまったら、小説を読み、自ら想像する喜びは損なわれるだろう。

しかし、逆にうまく目的地にランディングしないうちに手を離してしまえば、読者は突き放されたような気持ちになる。「これを読んで一体何を感じればよいのか?」と読者は路頭に迷ってしまうだろう。この短編集の中で一番そのバランスが優れているのが「羽根」だと感じた。

以下、「大聖堂」の中の「羽根」という短編についてレビューを書こうと思う。

 

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

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神のいない世界でどう生きるのか 神の子どもたちはみな踊る

子どものころ、一輪車の練習に父親が付き合ってくれた。
早朝、まだ日の登らないうちに一輪車をトランクに詰めて近所の広場まで運転してくれた。
とにかく乗れるようになるまで毎朝その特訓は続いた。父は文句を言わなかったし、ぼくも弱音は吐かなかったと思う。ただ粛々と毎朝5時に起きて一時間ほど練習する日々は毎朝続いた。

父が練習に付き合ってくれたおかげで、春が来るころにはすっかり一輪車に乗れるようになった。大人になってから一輪車に乗る機会などない。逆上がりだってしない。野球のフライを上手に捕れなくなって何の問題にもならない。

何のために小学生が一輪車に乗れるようになる必要があるのか今でも疑問だけど、ともかく今でもけっこう上手に一輪車に乗ることができる。

 

この短編集のなかで1番好きなのは表題作の「神の子どもたちはみな踊る」だ。
この短編連作は「地震」をテーマにしていて、その中でも「神の子どもたちはみな踊る」は「新興宗教」をひとつのテーマにしている。

 

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 

 

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その愛は破滅を宿命付けられている「死の棘」

 


『怒りには 目的がある』
そう言ったのはオーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーだ。

例えば、「どうしても子供や夫に対する怒りをコントロールできない」という女性がいたとする。さっきまで烈火の如く怒り、子供を叱責していた母親も、電話がかかってくればまるで憑き物が落ちたかのように上機嫌で電話応対し、愛想よく振る舞う。それで「母親の怒りは収まり、機嫌がよくなったのだ」と子供は安堵するかもしれない。でも、決して油断してはならない。
母親は礼儀正しく相手に別れの挨拶をして、受話器をおいたあと、子供に再び怒りの形相を向ける。子供は状況が電話の前とまったく変わっていないと気がつくことになるのだ。

 

「死の棘」の中で、不貞を働いたことがバレた夫・トシオは妻・ミホに三日間不眠不休の追求を受ける。
追求はその三日だけに終わらず、ミホはトシオと愛人との手紙や、不倫中に書いた日記の内容を事あるごとに蒸し返して逆上し、トシオを激しく責め立てる。

 

「いったいどうするのかしら?あなたのきもちはどこにあるのかしら。どうなさるつもり?あたしはあなたには不必要なんでしょ。だってそうじゃないの。十年ものあいだ、そのように扱ってきたんじゃないの。あたしはもうがまんしませんよ。(中略)誰にもわからないようにじぶんを処分するくらいのことはあたしにもできます(中略)そのあとであなたは好きなようにその女とくらしたらいいでしょ」


巻末の解説を読むと、ミホのことを『そのすさまじい狂態にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、美しく可憐で、しかも崇高なものに描き出した』とあるが、ぼくはこれを読んで首をかしげてしまった。
ここに書かれている女性は美しくも可憐でもないし、ましてや「崇高さ」など微塵も感じられない。ただの普通の不安がちな「女の子」である。(そう、成熟した大人の「女性」ではない)
そして、目に見えて狂気じみた妻のミホよりも、ぼくはむしろトシオの方に強烈な狂気を感じた。

 

「文学」という大義名分のもと、妻を狂わせ、子供たちを絶望に追い込む彼の身勝手さ。彼の行動はミホの狂気を誘い、強化する。寛解へ至ろうとすればその手を掴んで再び狂気の世界へと引きずり込む。

 

ミホが怒れば怒るほど夫婦の愛情は痩せて貧しくなったように、文学に過激さを求めれば求めるほど、「ドラマティックな」、あるいは「偉大な」文学からは遠ざかり、表現は痩せて貧しくなる。


にもかかわらず、2人はそれに気が付かず、同じところをぐるぐると回ってしまう。その袋小路になんとも言えぬ人間臭さとアイロニーを感じ、そこにこそ、ぼくは胸を打たれた。

 

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

 

 

 

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