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ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

また日本が誤解されてしまう 映画「夜は短し歩けよ乙女」感想

 

話題になったドラマ「タラレバ娘」のように、最近ではこじらせてるものと言えばもっぱら女子のほうが俎上に上がるけれど、もちろん男子のほうだって負けていない。

映画、夜は短し歩けよ乙女は、主人公が成長するわけでもなく、困難に立ち向かうわけでもない。厳しいトレーニングの末にチャンピオンからメダルを奪取するわけでなければ、宇宙人の襲来から地球を守るわけでもない。
普通の大学生が思いを寄せる少女に声をかけられず、ストーカーよろしく彼女「黒髪の乙女」を付け回し、偶然を装って「な」るべく、「か」のじょの、「め」にとまるように行動している。
主人公の「先輩」はその頭文字を取った「ナカメ作戦」なるものを決行している。もちろん堂々と声をかけたりはしない。なぜなら傷つくのが怖いからだ。「先輩」はまさに絵に書いたように冴えない。

森見登美彦原作の同名小説を鬼才湯浅政明がアニメ映画化した。四畳半神話大系と引き続き、キャラクターデザインは中村佑介、主題歌はアジアンカンフージェネレーションとくれば、見ないわけにはいかない。斬新なデザインと色使い、近年の美麗なだけのイラストとは一味違う癖の強い絵柄、キャラクター、世界観。
日本の古都、京都を舞台に誰も見たことのないアニメ映像に仕立て上げた本作に喝采したい。やたらとパンツを奪われる「先輩」、願掛けのためにパンツを脱がない「パンツ総番長」、女装癖のある「学園祭事務局長」など、「四畳半」メンバーがまたしても世界にむけて奇妙な日本像を打ち出し、外国人を誤解させてしまった。いいぞもっとやれ。

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

 

 


他人と出会い、声をかけ、仲良くなる。そして、やがて互いが互いにとってかけがえのない存在になる。
モラトリアム真っ盛りの青年にとって、異性と恋人関係になることは実はチャンピオンからメダルを奪取することや、宇宙人から地球を救うことに匹敵するくらいに困難だ。こちらが気持ちをさらけ出して、もしも相手から拒絶されたらどうなってしまうだろう?向こうがこちらを全く意識していなかったらどうしよう?

「先輩」は恥を回避するために外堀を埋めることに腐心する。
たまたまだけど、名古屋市美術館で行われていた「アドルフ・ヴェルフリ」という人の特別展示に先日出かけてきた。
アドルフ・ヴェルフリは、若い時分に犯した性犯罪が原因で死ぬまで精神病院を出られず、病院で絵を書いた画家だ。彼は新聞の後ろに色鉛筆で絵を書く。その画風は細かい模様の絵をびっしりと隙間なく埋める偏執狂的なものだ。まるで少しでも空白が空いていたらそこから自分の世界が崩壊してしまうとでも思っているかのように見える。その絵は見るものを不安にさせ、あるいは落ち着かなくさせる。

彼の絵の中に、「アリバイ」という題名の絵があって、なんとなく合点がいった。その大きなキャンパスの中で意味のない空間がないように辻褄をあわせること、エクスキューズを与えること、それこそが彼にとっての芸術なのだ。
夜は短し歩けよ乙女も、ヴェルフリも、これらの作品群に共通するキーワードは肥大した自我を支える壮大な『言い訳』だ。

何かが解決するわけでもなければ、何かを倒すわけでもない。
ただ、あるがままに受け入れ、受け入れられることを望む。西洋的な、あるいはハリウッド映画的な世界観とはまた違うところにこの映画の面白みはある。

こじらせていても、イタくても、「まあ、そういう人なんだから仕方ないよね」と展開するところに日本的な情緒と懐の広さがあるような気がする。

加えて白眉なのは映画化において冗長なこの原作を一晩にぎゅっと縮めたところだ。本来は春夏秋冬の一年を描いた作品なのだが、湯浅監督の判断で、それを一晩にしてしまう。

元から荒唐無稽な話なのだから、何の説明もしなくても違和感がなかったと思うのだが、おそらく原作には登場しないアレンジが散見される。
乙女に向かって「君が来てから夜が長くなったようだ」と樋口に言わせたり、乙女のしている腕時計の進み方が普通なのに対して、老人の腕時計の進み方が異常に早く、しかも文字盤が干支の目盛になっていたり、やたらと凝っていてしかもお洒落だ。

荒唐無稽でナンセンス。でもどこか懐かしく、とびきり洒落ていて、しかもはっと驚くような仕掛けに満ちている。見ればいつの間にか乙女と一緒にいつまでも歩いていたいと思わせるような、そんな素敵な映画に仕上がっていた。