ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

許されないすべての人間への赦し「失くした体」

はっきり言ってこの映画の後味は悪い。一般受けとは程遠い映画だ。80分間通して、画面はゴミだめ、通気口、地下鉄の線路などを写すために暗く、ラストにも救いがない。見終わったあと、これはいったいなんだったのか、とガッカリする。期待していたようなエンディングでないために、もしかしたら怒る人もいるかもしれない。魔法のような世界でありながら、奇跡のような展開は起きない。だが、じわじわと余韻が残る。あれはいったいなんだったのか?見終わってから数日、映し出された物語の意味を考えさせられる羽目になる。この余韻はいったいなんなのか?「失くした体」とはどういう意味をもつ映画なのか?

右手を事故で失くした青年、ナウフェル。物語は医療施設に保管されていた彼の切断された右手と、右手の主であるナウフェルを主人公として語られる。右手は施設を抜け出し、夜のパリを駆け抜ける。『失くした体』ナウフェルの右腕と再び結ばれることを夢見て。

普通に考えれば、失くした体、というより、失くした右手だろう。しかし、原題は「J'ai perdu mon corps」で、直訳すれば「私は体を失った」となるようだ。どうしてこのようなパラフレーズが起こっているのだろうか?どうして右手の視点で物語は語られるのか?

 


『失くした体』予告編 - Netflix

 

 

 

ナウフェルはピザの配達人で、雨の日の配達中事故に遭い、配達時間に遅れたうえ、客であるガブリエルのピザを台無しにしてしまう。ナウフェルは束の間雨宿りするようにマンションのインターフォン越しにガブリエルと会話する。事故にあった、と打ち明けたところ、怪我はないか?と気遣われることでナウフェルはガブリエルを意識し始める。後日、名前と、図書館司書という情報だけをたよりにナウフェルはガブリエルを探し当て、職場から彼女を尾行。成り行きから彼女の叔父が経営する木工工場に住み込みで働き始める。

主人公のナウフェルだが、あらすじからも分かるようにストーカーじみているし、要領が悪く、ピザもしょっちゅう遅配していて雇い主からも叱られ、冴えない男だ。そのうえ物語のなかで右手を失うという展開なので、まったく救いがない。

もし、彼の右手が主人公でなかったら、この映画が視聴者に与える印象はまったく別のものになっていただろうと思う。その印象とはおおむね以下の通りだ。
ナウフェルは幼いときに事故で両親を亡くし、愛を知らずに育てられている。だが、だからと言って今彼が冴えないことをそのせいにするのは甘えに過ぎない。彼の人生が冴えないのは彼自身の責任だろう。彼は大人の男だし、自分の人生を変えるチャンスはいくらでもあった。
きっと、そういう印象を抱くことだろう。甘えるな、と。しかし、右手を視点にすることで、この映画のもつメッセージはがらりとかわる。

まず、右手は記憶を持っている。まだ生きていたころの両親の記憶だ。母親に教えてもらったピアノの鍵盤の感触、父親と一緒に眺め、ゆびさした地球儀の感触。幸福だった時代、ナウフェルが当然のように両親の寵愛を受けていたころの右手の記憶。そして、不遇な時代、ピザを運ぶ手の記憶、愛のない親戚に引き取られ、邪険に扱われる生活。

色彩に満ちた幼少期と、モノトーンの青年期。それらが交互に描かれるのを背景として、右手は地べたを這い、ゴミだめのなかを駆け回る。

右手はネズミに食われそうになり、盲人のピアニストから蛇蝎の如く嫌われ、犬をけしかけられる。それは、両親を失くしたあとのナウフェルの人生とリンクする。

ナウフェルに同情できなくても、彼の右手にはきっと誰もが同情できるだろう。体から離された右手は弱く、心細い。右手にとって夜のパリはあまりにも広く、冷淡だ。同じ物語を物語るのに、右手に視点を移すだけでまったく別の印象を抱くことに驚かされる。

しかし、はたと気がつく。ナウフェルはどうなのか?無条件の愛を知らぬ彼もまた、体から切り離された右手のように、パリの、あまりに広く冷淡な世界に打ちのめされているのではないか?

この映画を評して、「自己肯定」という言葉が感想の一つとしてあったが、それは良い得て妙だ。「失くした体」は許すことをわれわれに教えてくれているのではないだろうか。手はおぼえている。愛されたことを、そして、愛したことを。小さな存在である手から見れば、ナウフェルという存在は許される。これまでの人生を共に歩んだ手の主人はナウフェル以外にはありえないのだから。
ナウフェルは、大人の男であり、その行動は自己責任とみなされる。つまり、彼は「許されない存在」だ。ストーキング行為も、ピザの遅配も、交通事故も、彼は許されない。だが、この映画は、自己責任の名の下に切り捨てられるはずだった男の境遇を「許す」ことができるのではないか?それはつまり観たものを、ひいては人間全てを「許す」ことができるのではないだろうか?
誰もが誰かにとってかけがえのない存在である。打ち捨てられている、世界と切り離されている、そういう孤独感を持っている人間であっても、誰かにとってはかけがえのない人物だ。
両親を失い、天涯孤独の身の上になったナウフェルであっても、彼がいかに冴えない男で、ピントのずれた行動をしていたとしても、彼の手から見れば彼はかけがえのない人間の一人だ。

救いのないエンディングだ、と冒頭で言ったが、ラストシーンは後から考えればこれ以外の展開は考えられないほどに完璧なものだったように思う。「人生を変える分岐点」と作中で語られるあの場所で、ナウフェルはその一歩を踏み出すことに成功する。彼は自分のことを決して打ち捨てられたみじめな存在だと思っていない。決して自分を哀れんではいない。
ナウフェルはいつかきっと自分の居場所を自分自身の手で見つけることだろう。この広くて冷淡なパリの中で。その余韻が見るものすべてを許す力をもつのだろうと感じた。