ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

翻訳で死なない小説とは? カーヴァー「羽根」(「大聖堂」より)

翻訳本のことを話すときにときおり話題になるのが、「翻訳本は原文から翻訳するときにその文章の本来の魅力は損なわれてしまう。だから、その小説の真髄を味わうには原文のままで読むしかない」というもの。

その主張にも一理はある。
英語圏でしか伝わらない表現、文化的な背景を知らなくては連想できないパラフレーズ、その言葉独自の流れるような韻律の美しさは翻訳によってある程度損なわれてしまうし、翻訳者がどれだけ原文の雰囲気を保持できるかは翻訳における大きな問題だ。

それでは、日本人なら日本語で書かれた物語だけを読めばよくて、英語で書かれた物語は一部の英語が堪能な人だけが愉しめばよいのか?というと、それもちがうような気がする。

「ノーエクスキューズの潔さ」というのがカーヴァーの最大の魅力だ。これはさじ加減の非常に難しい作業だ。ゴールまで手を引っ張ってしまえば、陳腐になる。すべてを言葉で説明してしまったら、小説を読み、自ら想像する喜びは損なわれるだろう。

しかし、逆にうまく目的地にランディングしないうちに手を離してしまえば、読者は突き放されたような気持ちになる。「これを読んで一体何を感じればよいのか?」と読者は路頭に迷ってしまうだろう。この短編集の中で一番そのバランスが優れているのが「羽根」だと感じた。

以下、「大聖堂」の中の「羽根」という短編についてレビューを書こうと思う。

 

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

 

 


「ロマンス」という言葉がある。
これはもともと古代ローマ時代、学術的な内容の書物がラテン語で書かれたのに対して、大衆向けの恋物語古代ローマ語、つまり「ロマンス」で書かれたために「ロマンス=ラブストーリ」という図式ができあがって定着した。
古代ローマ帝国の領土は、北はイギリスから南はアフリカ大陸北部まであり、地中海の周辺の国々は元ローマ領だ。古代ローマ語の影響下にある言葉をロマンス語圏というが、ローマ帝国の本拠地たるイタリアはもちろん、イギリス、フランスなどもこのロマンス語圏に属する。ロマンス語圏の国々は、紀元前の昔からこの翻訳問題に悩まされており、ぼくたちの使う閉鎖的な日本語とはこの問題に取り組む歴史がちがう。

とりわけ英語圏の作家は、出版と同時に各国語に翻訳される。彼らの中には、翻訳されたあとのことを意識して小説を執筆する人もいる。
例えばイギリス人作家のカズオ・イシグロは英語で小説を書いているけれど、彼はつねに自分の小説が他の国に翻訳されたらどうなるか?を意識しているそうだ。翻訳によって死んでしまう魅力があるのと同様に、翻訳によって死なない表現がある。

翻訳によって死なないもの、それは2つあると思う。
一つめは、その小説に『何が書いてあるか』(構造=メタファー。すなわちどういう人間が何をして、その結果どうなったかという、全体を支配している隠喩のこと。これについては長くなるので今回は書かない)
二つめは、その小説に『何が書いていないか』だ。卓越した小説家にとって、「書かれていないこと」は書くのを忘れていたわけではなく、「あえて書かない」ことを選択したことにほかならない。

カーヴァーの小説の魅力はおそらくこの『書かれていないこと』にあるように感じた。
こういう人間に、こういうことが起きた。そしてその結果こうなった。という物語を作って読者に想像させる。しかし、多くの作家はついついその続きを書いてしまいがちだ。すなわちその続きとは、「それを聞いて、あなたはどう思うのか?わたしはこう思う」という文脈だ。

例えば、「大聖堂」の中に含まれる「羽根」という作品だ。

「羽根」は妻との決定的な決別を描いている、とぼくは読んだ。だけどこの小説の大まかな筋を読んでそれを連想する人は少ないのではないだろうか。

 

羽根のあらすじは以下のようになる。

主人公は職場の友人の家に妻とともに招かれる。主人公の妻はあまり乗り気ではないが、おそらくは主人公の友人夫婦の間に生まれた赤子が目当てで彼についていく。主人公夫婦は、友人宅で変わったものを目撃する。「友人の奥さんの矯正前の歯型」、「庭を駆け回る孔雀」、そして「不細工な彼らの赤ん坊」。
主人公と妻のフランは帰宅後もずっとこの出来事を覚えている。

正直なところ、最後の下りを読むまで、描写は素晴らしいが、特筆すべきところのない小説だと感じた。しかし、同じものを見た主人公と、彼の妻フランがまるで違う感想を抱いているのだと気がついたとき、強い衝撃を受けた。

まずは、主人公の側の描写を引用する。

P57
パドとオーラの家でのその夜はかけがえのないものだった。
私の人生のほとんどあらゆるものが心地よく感じられた。
私は自分の感じていることをフランに伝えたくて、二人きりになるのが待ちきれないほどだった。
この夜のことをいつまでもずっと覚えていよう、というのが私の願いだった。

 

その後フランは扇情的な台詞を言い、彼らは子作りに励む。
ここまでが主人公の主観だ。彼の目を通して語られる友人夫婦との夜は、彼にとってかけがえのない経験であったことが示唆される。

では、同じ経験をした主人公の妻フランは一体どう感じたのだろう?たとえ夫婦であってもあくまでべつの人間だ。別の感想をもつこともあるだろう。

誰もが人生の中でその感覚を味わったことがあるはずだ。自分がかけがえのない、自分の人生にとって重要だと思うような経験だと思えば思うほど、恋人や配偶者がまったくべつの感想をもったときに大きな衝撃を受け、恋人や配偶者と距離を感じ、かつてそこにあった親密な感覚が失われる。

語り手が主人公なので直接的心情描写はないが、フランのリアクションは以下の通り。

P58
「いかさない夫婦と不細工な赤ん坊」とフランは言う。
P59
「それにあの臭い鳥」「考えただけで気色悪い」
フランはもう乳製品工場で働いていないし、長い髪もとっくの昔に切ってしまった。そして彼女はぶくぶくと太った。

 

それから主人公は友人パドとの関係もよそよそしいものに変わってしまったことが示唆される。
明らかにフランの感想が主人公に強い影響を与えている。
しかし、カーヴァーはそれを書いていない。書かないことを選択したのだ。
ただし、ヒントというか、ほのめかしのような部分はある。

P60
彼女とはだんだん話すことが少なくなってくる。
一緒にただテレビを見るくらいだ。

主人公は妻フランに対してもうかつてのような感情を抱くことができない。彼女は主人公の好きだった長髪を切ってしまっている。彼の愛したものは損なわれ、破壊されている。

 

 

 羽根という短編のすごいところは、以上のことを直接的な言葉では言及しないところだ。ヒントとして以下のような文章でほのめかすにすぎない。

P58
(この夜のことはずっと覚えていよう、というのが私の願いだった)に対し
■願い事がかなったなんてあとにも先にもこれっきりだが、私にとってそれは裏目にでてしまった。
■「あれが物事の変わり目だったわね」と、でもそれはちがう。変わったのはその後のことだ。

 

カーヴァーは、この短編集を通して、「かつてあった美しいものは永遠に損なわれてしまった」というテーマを繰り返し、繰り返し述べている。
前半部で、主人公にとってその夜の経験がいかに美しく胸を打つものであったかが述べられ、後半部で、フランが全く別の感想を持ったことが示唆される。そしてその結果心理的に大きな溝ができ、主人公はもう以前のようにフランとの間に親密さを共有することができない。

カーヴァーの小説は翻訳によって死なないフィジカルの強さを持っている。
逆説的な言い方になるが、小説家にとって、「書くこと」は「書かないこと」と表裏一体である。何を書き、何を書かないかは小説家によって委ねられ、小説は書いて有ることと書かないと決めたことのプリンシプル(方針)によって成立している。

「大聖堂」という短編集の面白さは、すべての短編が傑作ではないことだ。
どの短編が手を離すのが早すぎたのか?と考えながら読むのも面白い。
(そして、また面白いことに、カーヴァーは手を離すのが遅い、あるいは説明しすぎるということがない。これはこの小説家の特徴なのだろう)