ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

アンチヒーローとしての「フランケンシュタイン」

メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」を読む機会があったので書評を書こうと思う。

この話をアンチヒーロー、あるいはダークヒーローの話として読んだ。
アンチヒーローとは言葉の通り、ヒーローの逆、あるいはヒーローとは対をなす存在であり、悪役とは違う。「フランケンシュタイン」という小説は、ヒーローの物語の影のような存在ではないかという印象を受けた。

超有名なこの作品ではあるが、実際のところこの作品を鑑賞するとき、我々が今に至るまで湯水の如く消費してきた「ヒーローの物語」という文脈を必要とするのではないかと思った。

それについて書こうと思う。

 

 

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

 

 

 

まず、ヒーローとはいったいどういう存在なのか?
フランス語でノブレスオブリージュという言葉があるが、これは日本語に直すと「高貴なる者の義務」ということになる。この言葉が成立した当初は、高貴なる者というのは本当に血筋のことを指していたと思うが、今は「能力のある者」のような文脈で現れることが多いと思う。財力があったり、有名だったり、社会的な地位がある、みたいなイメージだ。

ヒーローの登場するフィクションは古今東西絶大な人気をほこっていて、今で言えばスーパーヒーローものの映画がそれにあたると思う。スーパーマンスパイダーマン、それからバットマン

彼らはスーパーヒーローとしての義務を果たすために困難な敵に立ち向かう。なぜ彼らに義務があるかといえば、ヒーローには敵を倒すだけの能力があるが、他の多くの人々にはその力がなく、ただ悪に蹂躙されるしか術がないからだ。

アンチヒーローとしてのフランケンシュタイン

この小説がアンチヒーローの話だと考えるといくつかの点で合点がいく。ヒーローの物語と「フランケンシュタイン」の共通点は、登場人物が困難な状況にさらされることだが、その後の行動が前者と後者では違う。
前者が「高貴なる者の義務」の元に行動するのに対し、「フランケンシュタイン」は困難な状況に陥ったキャラクターがノブレスオブリージュとはちょっと異なるようなことをする。アンチヒーローという言葉が漠然としているなら、アンチノブレスオブリージュと言い換えればより正確ではないだろうか。

怪物は醜い姿を持ち、生まれながらにして人々から忌み嫌われる。その一方で人よりも強力で強靭な力を持つため、ヒーローになりうる資質はあった。しかし彼は困難にさらされたとき、フランケンシュタインの弟、友人のクラーヴァル、妻のエリザベス、といった何の罪もない人たちを利己的な理由で殺している。
高潔な人物とは程遠い行動だ。にもかかわらず彼が魅力的なのは、彼が絶えず不幸、困難な状況にさらされ、苦悩しているからだろう。

そしてこの小説にはヒーローがいないからこそ、彼を悪者だとは思えないのだ。唯一英雄になりえたのは創造者のフランケンシュタインだが、彼の行動はヒーローとは程遠い。


・怪物を夢中になって作るも、いざ動き出すとそのキモさに恐れをなして逃亡。挙句に体調不良でダウン。
・怪物を数ヶ月放置した後、研究室にいないのを見て狂喜乱舞。
・その後弟を殺され、何故か怪物のせいだと直感。帰省する。
・仲のいい女中に弟殺害の容疑がかけられるが、特に何も手を打たず、死なせる。
・一度は怪物の伴侶を作ると約束するも、わざわざ怪物が見ている前で作りかけだった怪物の伴侶を破壊して怒りを煽る。

などなど。このように、はっきり言って彼の行動はクズそのものである。

この話がどうして世界中で読まれるのだろう?その理由もやはり、ヒーローの物語の「揺り戻し」あるいは「アンチテーゼ」として読まれるから、だからであろうと思う。

例えば、今バットマンの敵役である「ジョーカー」を主人公にした映画が空前のヒットを飛ばしているが、ヒーローとアンチヒーローは振り子のように行きつ戻りつしながら流行を繰り返しているように思う。

例えば2000年代。
クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」はバットマンが主人公の映画で、これも大ヒットを記録したが、この映画が公開されたのは2008年。2000年初頭に同時多発テロが起こり、「高貴なる者の義務」が強く意識されるようになった。あの話は、「高貴なる者の義務」を負うものは自らの行動の責任を負わなければならないというメッセージがあったように思う。

では、2010年代はどうか?トランプの当選による「アメリカファースト」と、イギリスのEU離脱ブレグジット」に見られる、「ノブレスオブリージュ」とは逆の流れだ。「高貴なる者は世界に対して責任を負う」のではなく、世界への責任からは一歩引いて自国の利益を優先する、という流れができている。

調べてみると、フランケンシュタインが出版されたのは1818年。ちょうどアイルランドの独立と、それを阻止するイングランド側の攻防が続いていた時期のようだ。

「ノブレスオブリージュ」というのは高潔な精神から生まれる立派な行動ではあるが、その行動の結果、目を覆いたくなるような惨状が待っていることもある。北アイルランド問題は現在でも火種としてイギリスを悩ませているし、同時多発テロ後のイラクへの侵攻は結局大量破壊兵器が出てこなかったことで疑問視されている。そうした結果を受け、多くの人々はちょっと待てよ、と考えるのかもしれない。我々が正義と呼んでいたものの正体とは一体何だったのか?
我々もまた愚かな「怪物」だったのではないか、と立ち止まるのかもしれない。
フランケンシュタイン」をそのようにとらえると、興味深いのではないかと思う。