矛盾してるけどずっと愛するだろう マリッジストーリー
本音を言わない人たち「高慢と偏見」
再読して改めて感じたが、この小説の魅力は極めて繊細で、驚く程難解だ。なにしろ、登場人物たちはストレートに自分の感情を表現しない。
村上春樹が小説の創作について、「優れたパーカッショニストは一番重要な音を叩かない」と表現したが、その表現は言い得て妙だ。伝えるべき一番重要なことを彼らは相手に伝えていない。
しかし、よく考えてみると、現実の我々の世界でもまた重要なことを話すとき、しばしば彼らのようにふるまっている。話題が重要なことであれば、我々は他人からよく見られようとし、保身に走る。その結果事実ではないことを述べたり、言いにくいことをはぐらかしたりする。しかもそれを無意識のうちにやってのけ、意識していなかったと嘘をつく。
ぼくはオースティンの文学の卓越性は「恥」の感覚とその表現にあると考えている。登場人物が婉曲表現を使うのは何かに対して恐れを感じ、恥ずかしい思いをすることを回避しようとしているからだ。しかし、彼らは一体なにを「恥」としているのか?そして、なぜ「恥」こそが重要なのか。
結論から言えば、『何を「恥」とするか?』という感覚こそがその人間を定義しており、だからこそ重要なのだとぼくは考えている。
それについて考察していきたい。
ネタバレを含むので、未読の方はご注意いただきたい。
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そこに必然の恋はあるか? 「国境の南、太陽の西」
「僕たちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も知る必要がある」
哲学者 ジャン=ポール・サルトル
フランスの哲学者サルトルが内縁の妻である、同じくフランスの哲学者ボーヴォワールに話したと言われているのがこの台詞だ。これを読んでなんたる浮ついた気障男か、あるいはなんと自分に都合のいいことを言う男か、と憤慨される人も多かろうと思う。しかしそういう感情はいったん脇に置いておいて(置いておくことは無理だという人も多いでしょうが)考察していきたい。二人の間に何があればサルトルの言うところの「偶然の恋」でなく「必然の恋」だと言えるのだろうか?
ぼくは普段それほど恋愛小説は読まないし、恋愛映画や恋愛をメインにしたドラマも見ない。ぼくは村上春樹の小説が好きで、全て読んでいるのだけど、彼の小説の中で何が一番好きか、と問われると、この「国境の南、太陽の西」を挙げる。巷にあふれている恋愛小説は、重要な点が欠落していると考えるからこそ、がっかりしてしまったり、なんだか最後まで乗れなかったりするのだが、この小説だけは別だ。(不倫を主題に置いているためになかなか人には勧めづらいし、合う人と合わない人の差も激しいとは思うのだけど)
恋愛小説において重要なこと、それは「自分の恋愛の相手は彼女(あるいは彼)でなくてはならない」という必然性ではないだろうか?もしその必然性に説得力がなく、他の誰でもいいのであれば恋愛小説のなかのドラマは成立しない。相手が誰でもいいのなら、どれだけ愛を叫んでも空虚だし、ふたりの愛の間に障害があるのなら別の相手を探せばいいだけの話だ。
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