ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

「ファウスト」の「渇き」はいかにして満たされ、あるいは満たされなかったか

身も蓋もないまとめ方をするなら、「ファウスト」とは、「悪魔と契約してなんでもできるようになった老人が色気づいて美女を落とす」話だった。そうやってまとめてしまうと「結局のところ男は性欲からは逃れられない」みたいな単純な話に矮小化されてしまいそうだけれど、もちろんここで描かれているのはそう単純な話ではない。(と思う)

 

この作品で表現されているのはファウストという男の飽くなき探究心であり、強烈な「渇き」だ。そして彼を突き動かしている行動原理は、「他者と一体化したい」という欲求であるように感じた。この欲求はおそらく世界中普遍的に存在するものと思うのだが、正確に表す言葉を知らないので「同一化幻想」と呼びたい。

 

「同一化幻想」は主に恋愛の分野で見られると思う。男性が美しい女性を、女性が経済的に優れた男性を恋愛対象として好ましく感じるのは相手と同一化して自分の価値が上昇するように感じられることが要因の一つとしてあるだろう。パートナーの容姿が美しかったり、社会的に成功していたりしても、本質的に自分の価値は上がったり下がったりしないが、「同一化幻想」はそれを許さない。(パートナーだけでなく、家族にもそれが当てはまるだろう。息子や娘、父親、母親、兄、姉、弟、妹……)

 

ファウストはその「同一化幻想」を極端なまでに誇張した人物だと感じた。彼は世界で最も優れた存在を目指している。だからこそ彼には美しく時間を超越した女神であるヘレネが伴侶として必要だった。そして破滅に至る道程で、彼は世界と同化しようとした。そのあたりの所感を詳しく書いていきたい。

 

 

 

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おじさんは、遠きにありて思ふもの 「現代日本の開化」【日本人について思うこと】

 

「おじさん」という日本語について最近よく考えているのだけど、「おじさん」というのは不思議な言葉で、存外、定義が難しいように思う。「おじさん」は一般的には血縁関係にない中年男性を指すが、誰かに向かって「おじさん」と呼びかけるのは大変失礼にあたるので本人を前に「おじさん」と呼ぶ人は多分、あまりいない。「あの人はおじさん」と本人がいないときに言われる場合もあるけれど、そういう場合はあんまりいい意味ではないような気がするし、「おれももうおじさんだよ」と本人が言う場合、どこか自嘲するようなニュアンスがある。

 

40〜64歳を中年期と呼ぶが、その年頃になると男性はもれなく全員おじさんになるのだろうか?ぼくは30代後半で、そろそろおじさんと呼ばれる年齢に到達しようとしているが(いや、若い人から見ればもうとっくにおじさんになってるかもしれないが)今も昔もおじさんという言葉から連想されるのは「未来」であるように思う。これはたぶんぼく自身が40代になっても50代になってもあんまり変わらず、もしかしたら死ぬまでそうかもしれない。なりたくないなぁと思いつつ、徐々におじさん化し、名実ともにおじさんになっていても「おじさんにはなりたくないものだなぁ」とボヤいているのかもしれない。あるいは今現在もすでにおじさん化しているのにこうしてボヤいているのかもしれない。誰しも自分のことは客観的に見られないものである。

 

各自の頭の中に様々な「おじさん」像はあるかと思うが、このエントリでは、「おじさん」とは「未来」であり、自らの父親や、学校の先生、会社の上司など、周りの年上男性の嫌な部分から醸成されたとりわけ「悲観的な未来」と仮定したいと思う。「おじさん」のイメージが悪いのは、日本の男性が自らの将来像を悲観していることではないかと思う。周りの大人が全員楽観的な未来像、つまりこうなりたいと思うような大人なら、おじさんという言葉はなくなるか、あるいはもっとポジティブな意味になるかもしれない。このエントリーの目標はそこに置きたい。

 

 

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あなたのおうちはどこですか?「ことばと文化」 鈴木孝夫

イギリスからドイツに移り住んで、ほとんど知識のないドイツ語を勉強していると、日本語や日本文化の違いについていろいろと思うところがある。

 

例えば英語やドイツ語で「さようなら」を意味する「Good bye」や「Auf Wiedersehen」(アウフヴィーダーゼン)という言葉は初学者がかなり早い段階で習うが、実際イギリスや、ドイツで生活しているとあまり使われないことに気が付く。おそらくだが、その理由は、この言葉に二度と会わないようなニュアンスが含まれるからではないかと思う。

 

だから英語では「See you (tommorrowやMonday)」、ドイツ語では「Tschüss」(チュース)や「Ciao」(チャオ)なんかを代用として使う。ただ、よく考えてみると、日本でも「さようなら」はあんまり言わない。たぶん、その理由はほかの国とおなじく、もう二度と会わないニュアンスがあるからだと思う。

 

 

 

じゃあ日本語で「さようなら」の代用としてよく使うのは何か、と考えてみると、夜なら「おやすみなさい」 (飲み会の帰りとかで使う)。あるいは「お疲れ様」(職場の人に使う)親しい間柄なら「じゃあね」とかだろうか。この挨拶なら二度と会わないニュアンスはない。

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