黒い時計の旅
読書会の課題本だったので、初めてスティーブ・エリクソンの小説を読みました。アメリカ文学といえば、ヘミングウェイのような削ぎ落とされたドライな文体のイメージがありましたが、スティーブ・エリクソンの場合はむしろかなりウェットな文体で、真逆のように感じます。
以降、ネタバレをふくみます。
筋を整理します
とても読みやすいとは言えない本です。書かれていることが実際に起こったことなのか、登場人物のイマジネーションの中で起こったことなのか、その判別が難しく、しかも架空の20世紀と史実の20世紀が入り乱れているというのがその理由のようです。
文学なんだから分析するだけ野暮ってものかもしれないですが、大まかな筋を取り出すとこうではないかと思います。
1)インディアンの血を引くアメリカ人のポルノ小説家バニングジェーンライトが、オーストリアへ渡り、ヒトラーのリクエスト通りに小説を書く
(ヒトラーは実はユダヤ人の血を引いているという説もあるので、主人公がインディアンの血を引いているというのはとても興味深い示唆を含んでいると感じます)
2)ヒトラーは亡き想い人のゲリをバニングの小説の登場人物に重ね、彼の小説に夢中になり、バルバロッサ作戦(ソ連への攻撃)を中止し、バトルオブブリテンを決行し、イギリスへの攻撃をおこなった。(史実は、バルバロッサを決行し、バトルオブブリテンを中止)
3)結果ソ連への戦略的敗北を回避したナチスドイツは敗北せず、ヒトラーは生きながらえる。
4) 妻子を殺された復讐の為に主人公は、自分の書く小説の中で老いたヒトラーの子どもを殺そうと考えるが、結局は殺す事ができない。
何故、ヒトラーはバルバロッサを中止したのか?
ヒトラーにとって、ソ連進攻は悲願であり、彼の主張の要であったようです。では、なぜそれを中止したのか?ここがこの小説の肝となる部分じゃないかと思いました。
ここからは個人的感想です。
序列を生み、肉体(感情)を無視したナチズム
当時ナチスドイツではドイツ民族こそが優れた人種で、ほかの種は彼らによって支配されるのがあるべき世の中の姿だ、という考え方、すなわちナチズムがヒトラーによって持ち上げられました。この思想自体に自滅するための回路が含まれていると感じます。
誰が優れた種で、誰が劣った種か、という序列を含んだ考え方はどちらにとっても不幸を生むように思われるのです。もしもこの世に優れた種と劣った種があるのならば、劣った種は優れた種のいうことを聞くだけで良くなり、命令以上のことを何もしなくなります。反対に、優れたものとされる種には失敗できないというプレッシャーがかかり、彼らは孤立することになります。社会全体でみた時、そんな世の中が暮らしやすいはずがありません。特にその『優れた種』を率いる総統となればプレッシャーと孤独は筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。
ヒトラーの孤独を埋める存在がゲリだった
バニングの書く架空のゲリがヒトラーの孤独を埋めることになりました。
彼女は「序列の外にある」存在です。
序列が強烈であればあるほど、序列の外にあるものが魅力を持ちます。しばしば、縦割りの男社会の中では女が神格化されるようです。
後半、老いたヒトラーの姿がこれでもかというくらいに記述されます。彼の肉体が老いれば彼の中のナチズムも老いるのです。この小説の中のドイツは老いたナチズムを必要としなかったからこそバニングが彼を連れだしても黙認し、若い頃のヒトラーの演説を放送してプロパガンダにせっせと勤しんでいます。
肉体の感じる孤独や寂しさというものを無視したうえでナチズムは成立していました。ヒトラーの肉体が老いても、思想は彼の身体を離れて独立し、永遠に若いままでした。永遠不滅のナチズムに人々がつき従って永遠に戦い続けるというのはどことなくオーウェルの「1984年」を思わせるディストピアです。
また、ターニングポイントとしてバルバロッサを選んだのがこの小説の白眉だったと思います。
バルバロッサを決行すればドイツは敗北し、肉体としてのヒトラーは死ぬことになったでしょう。しかし、作戦を中止した結果、ドイツは敗北せず、ヒトラーも死ななかった。とはいえ、思想家としてのヒトラーはそこで死ぬことになりました。このターニングポイントが黒い時計の旅を魅力的にしています。
アメリカの、コネも実績もないポルノ作家が歴史を変えるという荒唐無稽とも思えるストーリーに説得力を持たせるという荒業は、ターニングポイントとしてバルバロッサを選んだことに一つの理由があるのかと思いました。