ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

「本質」はどこにある? バーニング

村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を原作にした映画「バーニング」を見てきましたのでその感想を書きます。

 

テセウスの船というギリシャ神話に基づく有名なパラドックスがある。ファレロンのデメトリウスの時代からあるとされる希少価値のある30本の櫂を持つ船は、朽ちた木の部品を取り替えることで今現在まで残ってきたのだという。しかし、もしも古い部品を取り替えて、すべての部品を新しいものに取り替えたとき、果たしてそれは元の船と同じだと言えるだろうか?というのがこのパラドックスの要点だ。逆に言えば、「何が残っていたら同じテセウスの船だと言えるか?」であり、さらに言えばテセウスの船をテセウスの船たらしめている「本質」は一体なんなのか?というものが設問になる。

 

兵役を終えて帰国した主人公ジョンスの前に、彼の幼馴染だと名乗る女ヘミが現れるが、整形手術のおかげでジョンスは彼女が幼馴染だと分からない。ヘミは、幼少期に井戸の中に落ちて困っていたところをジョンスに救われたと言うが、それをジョンスは覚えていない。それは2人を結びつける重要なエピソードなのにも関わらず。ジョンスは恐らくはヘミとの精神的な結びつきを感じるために村の人たちに井戸の存在を聞いて廻るが、村長やヘミの家族は井戸など存在しないと言うし、ジョンスの母親は井戸はあるという。ジョンスにとっての「幼馴染のヘミ」は、何が残っていればヘミと呼べるのだろう?そして、2人の間にあるのは愛情?友情?それともそれらとは全く別のものなのか?

以下ネタバレを含みますので注意。

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主人公は、華麗なるギャツビーの主人公であるジェイ・ギャツビーと、「納屋を焼く男」であるベンがそっくりだと言う。原作にもこのセリフはあるが、ギャツビーという比喩を使って表現したいものは明らかに違う。村上春樹にとってのギャツビーは、「あまりにもストイックに自分の理想を追うために、周りがそれに追いついていけなくなる男」と捉えているように思うが、ジョンスの場合はもっと表面的な捉え方をして、「羽振りはいいけど何をしているか判然としない、実態の見えない男」と捉えている。

 

ジョンスは実態のない者に対する嫌悪感を時折露わにするが、この「実態」というのが曲者で、ではジョンスに「実態」はあるのか?と言えば、彼にもその「実態」はあるように見えない。彼は小説家志望ではあるが小説家ではないし、定職にもついていない。ヘミを愛している、というが、ヘミの幼少期のエピソードを覚えていない。ただ一回セックスしただけで、性欲だけで愛していると主張していると言えなくもない。2人の心が通いあうようなシーンが無いからだ。


ジョンスはベンがヘミを殺して焼いたのだと考えているが、トイレにあった時計はありふれたもので、他のコンパニオンガールもしていたし、猫をボイルと呼んで反応したのも偶然かもしれない。

 

あなたはどんな人ですか?と聞かれたら、なんと答えるだろうか?ジョンスは「小説家です」とも「ヘミの彼氏です」とも答えることが出来ない。彼を突き動かしたのは、テセウスの船をテセウスの船たらしめる、ジョンスをジョンスたらしめる「実態」や「本質」への渇望ではないか?それさえあれば自分が自分だと断言できる「本質」のようなもの、それさえあれば人生を乗り切ることができる、と彼は考えていたように思う。

 

韓国という国はその歴史上常に侵略や謀略にさらされている。そのことが大きく作品に影響を与えているように思う。彼らのアイデンティティに対する渇望は我々日本人からすれば驚くほど強烈だ。彼らにとってアイデンティティとは生まれた時から与えられたものではなく、戦って勝ち取るものなのだ。そう考えてジョンスのことを見れば、彼の持つ渇きのようなものの正体がおぼろげながらわかるような気がする。

 

村上春樹作品を原作として作った映画は失敗することが多いが、この映画に関してはきちんと一度原作を消化した上で全く新しい形にリビルドした素晴らしい出来の映画だと感じた。