ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

サイコパス2期が1期よりも面白く無い理由を考えてみた

 

2期の終わり方があんまりだぁぁぁぁぁだったので、ストーリーテリングの観点からどこがまずかったのか考察してみることにしました。
脚本が虚淵玄じゃなかったから。
と言うのは易い。確かに一言で言えば脚本のまずさが理由だと思います。
でも具体的にはどこが?というのを検証してみることにします。
はじめに断っておきますが、クソ長いです。愛ゆえに。

 

 

 

SFというジャンルの物語における起承転結

1期と2期の大きな違いを、ストーリーテリングという観点で見てみると、2期は1期の続きだ、というのがあると思います。
つまり、1期がこの世にでたとき、当然のことながら、視聴者はシビュラシステムというものを知らないし、禾生(かせい)局長の正体がなんなのかも知りません。となると、1期はそれらの『説明』をする必要があります。SFというジャンルの物語において『説明』というものは切っても切れない関係にあります。なぜなら、SFというジャンルの物語はみんな、「俺の考えた俺による科学的な設定の世界で生きるキャラクターの話を聞け!」というある意味傲慢な宿命を背負っているからです。
一方で、ストーリーテリングにおいて説明ほど退屈なものはありません。僕の敬愛するブレイクスナイダーというハリウッドの脚本家は、映画において観客にどうしても何かを説明したいときは映画館に来た観客を寝かせないため、登場人物に説明をさせている間、ビジュアル的に興味を惹かせる工夫をする、といいます。例えば、スパイのエージェントに作戦内容を説明するシーンの時にプールでローマ法王が水着姿で泳ぐシーンを入れる、などビジュアル的に気を引くような工夫をするのだそうです。(Save The Catの法則という本で詳しく書かれています)つまり、『説明』というものの扱いはとても厳重な注意が必要で、ハリウッド映画の脚本家でも苦慮するストーリーテリングにおける鬼門だということです。

さっきSFと『説明』は切っても切れない関係だと言いました。SFはどうしても他の物語にくらべて『説明』する内容が多いため、起承転結のうち、少なくとも「起」と「承」くらいまでは物語の設定、つまり世界観を視聴者や読者に伝えるという作業が発生します。これは他のジャンルの物語にはないちょっと特異な特徴だと思います。
SF読みというのはもともと特異な人たちで、他人の考えた設定を説明されることに慣れていますから、分厚い小説の半分以上が説明でも耐えることができる忍耐力の強いひとが多いですが、SF読み以外の人が楽しめる娯楽アニメとしてサイコパス(1期)が成功したのはストーリーテリング上の「起」と「承」が巧みだったからです。(もちろん、「転」と「結」も同じくらい巧みでしたが)

 

SF作品が「起」と「承」でするべきこと

 

1期が面白かったのは「起」と「承」がうまかったから、と言いましたが、その理由は2つあります。
1つは『説明』を具体的な物語の形に落としこんでいるから、です。2期では人間性を捧げた実力派エリート社畜として頭角をあらわす常守朱ちゃんですが、1期では初々しい配属初日の新米です。昨日まで学生やってた新入社員です。
当然就職先の公安局で起こることは彼女にとって目新しいものばかりで、逐一周りの先輩、説明好きのインテリメガネ、宜野座伸元(ぎのざのぶちか)や1期のチートキャラクター狡噛無双の狡噛(こうがみ)さんに聞けば「ググレカス」とは言わないで懇切丁寧に教えてくれます。なぜなら彼らは優しい先輩だから。じゃなくて、朱ちゃんの疑問が視聴者の疑問だからです。
つまり、ストーリー上何か問題が起こると、新米の朱ちゃんがびっくりしています。これは逆に言えば視聴者に、(このポイントで驚いてね、興味を持ってね)という脚本家からのメッセージなのです。それから宜野座さんや狡噛さんが実際に起こった犯罪をアクションや謎解きを交えながらかっこ良く『説明』し、捜査によって解決することによって、視聴者も世界観を理解できます。そして、虚淵脚本のサイコパス(1期)は、それに加えて起こった犯罪に対してそれぞれ個性的な反応を示すキャラクターに対して、あわよくば視聴者が共感して好きになってくれればいいなー、という思惑があり、それが見事に成功している感があります。

2つめは『説明』が物語のテーマに合致しているから。
この2つめの理由が今回の主張のキモです。シビュラシステムって結局なんなの?と言われると、犯罪を犯すかもしれない確率を、「犯罪係数」に置き換え、それがしきい値を超えたら執行して犯罪者を処理することで犯罪を未然に防いで治安を維持するシステムです。もっと簡潔に言うと、犯罪を未然に防ぐシステムです。
簡潔に言っちゃうと、いろいろ疑問が出てきます。犯罪を未然に防ぐって言っても、犯罪を犯してないのに裁いちゃってもいいのか?
例えば、『何かの拍子に犯罪係数が上がっちゃったらどうすんの?』
(第一話でレイプ被害者の犯罪係数が上昇して常守は保護を主張、狡噛は執行を主張し、葛藤が起こる)
『生まれつき犯罪係数が高かったり、なんかの拍子に高くなったらその後の人生どうなるの?』
(縢秀星(かがりしゅうせい)や六合塚弥生(くにづかやよい)、征陸智己(まさおかともみ)のエピソードでそれを『説明』。彼らには彼らの葛藤があることを示す)
といろいろ疑問に思うわけですが、具体的な物語の形に落としこんで見事に『説明』できています。
そして、そうした「起」と「承」があって初めて、『犯罪行為をめっちゃ犯しているのに犯罪係数が上がらない凶悪犯がいたらどうするの?』というのが1期のメインのテーマと結びつきます。犯罪を犯しても犯罪係数が上がらない免罪体質者として、1期のラスボス槙島聖護が登場します。
その疑問の答えが1期のラストと結びつき、衝撃のラストとなって物語のカタルシスを生むわけです。
しかし、2期。サイコパスの2期はこの辺りを失敗していました。

 

世界観はもうわかってるから「起」と「承」は飛ばしてもいいよね、という判断ミスが全ての元凶

 

確かに、視聴者はシビュラシステムのことはもうわかっていました。新編集版まで放送して1期のおさらいをしたから忘れたとは言わせねえ、という主張も筋は通ります。
だから、「起」と「承」を飛ばしていきなり「転」から始めたという感があります。2クール(22話)あった1期に対して2期は1クール(11話)しかなったという尺の制約があったとはいえ、これは断じて飛ばすべきではなかったと思います。
なぜなら、視聴者はシビュラシステムのことは知っていても、2期のメインテーマのことは知らないからです。
1期が、「犯罪係数の上がらない凶悪犯がいたらどうしよう?」がメインテーマで、2期は、「今までは個人の犯罪係数を見てたけど、集団としての犯罪係数を持つ存在が出てきたらどうなる?」がメインテーマでした。(たぶん)
ざっくり2期のあらすじを書きますと、以下のようになるかと思います。
集団としての犯罪係数を持つ個人として鹿矛囲桐斗(かむいきりと)が出てきましたが、シビュラシステムは当初、彼を認識できませんでした。なぜならシビュラはアルゴリズム上個人の犯罪係数しか見られないから。
しかし彼のテロ活動はどんどんエスカレートしてシビュラは彼を看過できなくなり、彼を裁く必要が生じました。
そのため、アルゴリズムを変えて集団としての犯罪係数を持つ存在を裁くことができるようにしました。
でもそうなると、集団としての犯罪係数が裁けることでシビュラ自身も裁けることになっていまいます。そこで、シビュラは自分自身が裁かれることを恐れて、集団としての犯罪係数を下げるために、犯罪係数の高い脳を処分するという行動に出ます。
2期とはこういう話でした。えっ、そんな話だったの!?と思う人もいるかもしれません。かくいう僕も、いろいろ他の人の意見をネットで見てようやく理解しました。このあらすじが理解できないのはひとえに視聴者の理解力不足が原因。……ではなく、「起」と「承」の描写不足が原因だと考えています。
(蛇足ですが、劇場版は2期のアルゴリズム変更が理由でシビュラを打倒できる話になるかもしれませんね)
2期の前半はもっとメインテーマに根ざしたものにするべきだったのです。
集団としての個人ってどういうことか?どんな生体反応でシビュラが個人を識別しているのか?集団としての存在を裁けるようになるとどうなるのか?それはいいことなのか?まずい事態が起こるのか?
ざっと考えただけでこのあたりの疑問を解決するような『説明』が、言葉による説明でなく、具体的な物語の形で落としこんで『説明』されていなかったことがサイコパス2期のつまらなさの原因だったのだと思います。あと、新しく登場したキャラクターに魅力がなかったことも原因として挙げられますが、それは彼らに葛藤がなかったからです。1期のキャラクターは、『説明』の段階で葛藤を描いていたために魅力があったのです。
1期で多くのキャラクターが死んでしまったのは残念なことですが、2期で新キャラクターの葛藤がテーマと結びつけて語られなかったこともまた残念なことです。
以上が考察の結果です。
こうしてみて、改めて虚淵玄の脚本の手腕に脱帽した次第です。。。

 

サイコパス劇場版の感想も書きましたので、よかったらどうぞ。

jin07nov.hatenablog.com